大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京簡易裁判所 昭和48年(ろ)634号 判決 1974年4月09日

被告人 小山七積

昭二七・八・一二生 学生

佐久間和夫

昭二六・七・二九生 学生

主文

被告人両名をそれぞれ拘留二〇日に処する。

被告人両名に対し、各未決勾留日数のうち右刑期に満つるまでの分をいずれも右の本刑に算入する。

訴訟費用については、証人萩原寅次(第一回)、同金子幸雄(第一回)、および同鈴木雄司に各支給した分をいずれも三分し、それぞれその二を被告人両名の連帯負担とする。

理由

(罪となるべき事実)

被告人両名は、氏名不詳者一名と共謀のうえ、正当な理由がなくて、昭和四八年五月一七日午前八時二〇数分ころ、東京都新宿区戸塚町一丁目四一〇番地甘泉園公園内およびその付近の甘泉園公務員住宅敷地内において、人の生命を害し、または、人の身体に重大な害を加えるのに使用されるような器具である鉄パイプ合計五七本(昭和四八年押第三九号の1、4および9)を各自所携の手提紙袋(前同押号の3、5および11)の中に隠して携帯していたものである。

(証拠の標目)(略)

(事実の認定に関する争点についての判断)

まず、冒頭に、本件の背景になつているとみられる事情と被告人両名が逮捕されるにいたつた成行とのあらましを、関係各証拠を総合して述べると、およそつぎのとおりになると思われる。

昭和四七年一一月八日以前の早稲田大学(以下、単に早大という。)においては日本マルクス主義学生同盟革命マルクス主義派全学連(通称革マル派)が、第一文学部、第二文学部、その他教育学部、政経学部等数学部の学生自治会に勢力を持ち、その強い組織力やそれを背景にした直接の行動力などによつて同大学における学生らの多くの間に隠然たる影響力を保持しているものとみられていたが、同年一一月八日、同大学第一文学部の学生川口大三郎がその構内の一室において、革マル派の学生とおぼしい多数の者から暴行を受けて死亡した事件が発生するにおよんで、同大学の一般学生らは強い精神的な衝撃と不安の念とに駆られ、これを革マル派による学園暴力支配体制の象徴的なあらわれとして、同派全学連執行部を糺弾しようとする気運がおのずからにしてたかまり、学内は騒然たる情勢を呈するにいたつた。かくして同年一一月一一日、一二日、一四日と、それぞれ四~五、〇〇〇人に及ぶ学生らが、革マル派全学連執行部を弾劾するため自然発生的にひらかれた学生集会に参加し、また、その後同月二八日にひらかれた第一文学部の学生大会では、定足数をこえる一、五〇〇名近くの学生が参加して、従来の規約を改正し、革マル派全学連の執行部をリコールする旨の決議がなされるとともに、あらたに自治会臨時執行部を設けることとなり、それにもとづいて、翌昭和四八年一月一三日に自治会委員六五名が選ばれて、新執行部選出の方法についての仮規約が作成され、越えて同月二七日右六五名の委員によつて総会がひらかれ、その席上で九名の自治会臨時執行部が選出された。一方、その前後にわたる昭和四七年一二月五日、同四八年一月二九日、同月三〇日、二月一日および同月五日の五回にわたつて、浅井第一文学部長あるいはその他の文学部教授らと右執行部員を中心とする学生らとの間に話合いがもたれたが、臨時執行部の公認については学校当局側が難色を示し、また、学生らが強く要望する総長との団体交渉の件についても確答が得られず、ただその件が実現できるように文学部教授会にはかるとか、文学部教授会を通じてその旨を総長に要請することを確約する趣旨の確約書が作成されるに止まつていた。その間前記他学部においても、各学部の教授らと話し合い、あるいは学生大会をひらくなどして、同様活発な動きを示し、漸次、多数の学生らの間に、臨時執行部の公式承認と総長団交実現との要求がたかまり、とくに第一文学部、政経学部および教育学部の三学部の代表が発起人となつて、全学総長団交の実現を推進するための組織として、全学団交実行委員会準備会なるものを結成するにいたつた。しかし、その後も事態進展の気配がないため、大学当局側に問題の本質的解決をはかる誠意なしとみた学生の一部が、前記川口大三郎事件の半周年にあたる昭和四八年五月八日理工学部教室で講義中の総長村井資長を本校舎八号館三〇一番教室に連行し、三、〇〇〇人あまりの学生が立錐の余地のないほどつめかけた同所において総長との間にいわゆる団体交渉を行ない、その結果総長は、「私は、本日の団交をふまえ、より多くの学生とも話し合いたいので、五月一七日正午より記念会堂または安倍球場において、全学大衆団交に、全理事、学生部長および各学部長と協議のうえ、あるいは私個人として、必ず出席することをここに確認する。うんぬん。」との趣旨を記載した前記準備会代表者あての確約書に署名拇印するにいたつた。それで、その後、関係学生の代表らは、五月一〇日以降大学当局者側との間に数次の会合をかさねて、右大衆団交を行なう場所の決定等細目についての打合わせを行なつたが、その点についての当局側からの確答が得られないばかりか、かえつて、「五月一七日に団交をやつたら学校をつぶしてしまうということを革マル派の学生が言つているから、大混乱が起きるよ。君らもけがをするかも知れないから、いつそ団交を止めるということにしたらどうだろう。」などという消極的な意見が当局側から出されるなどして、決着のつかないままに日を過ごしているうち、その集会の予定日とされていた右五月一七日の前日である五月一六日になつて、突如「セクト間の抗争はげしく、もし今の時点で集会をもつと、大混乱のおきることが予想される。」との理由で五月一七日の集会をとりやめる旨の告示が出されたので、これを知つた前記準備会の責任者が、大学当局に対して電話で総長が団交で確約したにもかかわらず、そのような告示で一方的にこれを破棄するのは許されない旨の抗議を申し入れたがこれについてはもはや話合いの余地なしとして拒否されてしまつた。

ところで、右のような一連の事態を大学側当局がどのように受け止め、またどのような基本的構想のもとにこれに対処し、学内における騒然たる情勢を収束に導くための努力をしたかなどの詳細な点については、これを確認するに足るだけの資料もないから、ここでは、ただ本件における審理の過程のうちにあらわれた証拠によつて窺いうる程度のことを順を追つて摘記するに止めることにする。まず、川口事件発生後まもない同年一一月一三日に第一および第二文学部当局が、同両学部自治会執行部の活動の停止を命ずるとともに、自治会室の使用を禁止し、また同自治会三役を処分する趣旨の告示をした。これは、大学側当局においても前記川口大三郎事件についての右両学部自治会執行部の責任を、一応認めたものとも解されるが、その翌同月一四日に行なわれた村井総長と毎日新聞記者との単独会見の席上において同総長が、右事件はセクト間の抗争の結果であるとの趣旨の発言をしたよしが伝えられ、ついで、同月一七日、大学当局によつて「学生らが鉄パイプなどの兇器を準備し、校内に持ち込むことは許されない。仮に校舎が一部学生らによつて占拠されるような事態が起これば、ただちに学校を閉鎖する。」旨の告示がなされるとともに、厳重な検問措置も実施され、なおその間、同月一三日から一四日にかけて学内において徹夜集会を行なつていた五〇〇人くらいの学生が再三にわたる大学当局による退去の勧告に応じなかつたため、当局は、一四日早朝、機動隊を導入して、それらの学生を校内から退去させた。その後、浅井第一文学部長あるいはその他の文学部教授らと同学部自治会臨時執行部員を中心とする交渉が行なわれて、確約書が作成されたりしたことは前記のとおりであるが、翌昭和四八年四月二日に挙行された入学式の式場に一部学生らが入りこんで、総長に面会を求めようとしたことや、また、そのころ革マル派学生の動きも加わつて学内における情勢がいよいよ険悪の度を増すにいたつたことなどを契機として、大学当局から「最近学生間にセクト同志の乱闘が続いているのは遺憾である。」との趣旨の告示が出された。ところで、その後、同年五月八日理学部の教室で講義中の村井総長を一部の学生らが本校舎八号館三〇一番教室に連行して、いわゆる団体交渉を行ない、その結果同総長において来る同月一七日再度の団体交渉に応ずる旨の確約書に署名拇印したことは、さきにも述べたとおりであるが、この件について、同月一四日、大学当局が「総長が講義中一方的に拉致されたということについては遺憾であるが、学生らが集会をもちたいということを強く希望していることはわかつたから、それは実現したいと思つている。」という趣旨の告示を行ない、あたかも前記確約書の内容を追認したかのごとく思われる見解を表明したというのに、その翌々日の同月一六日には、にわかに前記のとおり「セクト間の抗争がはげしく、今の時点で集会をもつと大混乱のおきることが予想される。」との理由で、五月一七日の集会をとりやめる旨の告示が出されたということについては、その間における当局側の学内情勢の把握による判断の結果であるとは察せられるが、少くとも外見上はいささか奇異の感を禁じ得ないものがあるといわざるを得ない。

そこで、一方その間における同大学間の革マル派学生らの動きであるが、この点については、当の革マル派に属する学生などを証人として喚問し、これによつて同派の立場からする弁明を聴くことが困難であり、また、とくに前記川口大三郎の件については、目下監禁致死等の刑事被告事件として、それが東京地方裁判所に係属中である状況のもとにおいて、一方的な速断に走ることの慎しむべきはもちろんであるにしてもその概略は被告人両名や弁護人側の証人三名の各供述によつてある程度明らかにされているばかりでなく、検察官もまた、「弁護人が立証したとおり、早大構内で昨年(昭和四七年)暮から相次いで学生間に暴力事件が発生したことは事実である。」と述べているから、しいてここにその詳細を逐一再記する必要はないと思われるが、要するに、川口大三郎事件の発生した昭和四七年五月八日の翌九日、同人の死体が発見された直後ころから一時学内から退去したかに思われていた革マル派学生が、同月一一日三福会館で記者会見を行なつた後、「全学中央自治会声明」と題するビラを携えてふたたびその姿をあらわし、学内集会を開催しようとするなどして漸次活動の兆しを取り戻しはじめ、その後、同月二八日ころから本件発生の直前である昭和四八年五月一四日ころまでの間、多数回にわたり学内において、自派に属しない学生らの無防備な集会の場にヘルメツトをかぶり、あるいは旗竿、竹竿、角材などを持つて攻撃をかけ、または自派の集会などに対してシユプレヒコールを口にしながら異議を唱えにきた学生らに対しても暴行を加えるなどし、ときにはそれらのものと何の関係もない一般学生までも巻きぞえにしたといわれるような状況を呈し、とくに昭和四八年一月中旬過ぎころからは兇器として鉄パイプを使用するようになつて多数のけが人を出すなどして情勢はいよいよ険悪の度を加えるとともに、同年四月八日ころには学外である国電代々木駅前においても同様の集団的暴行行為がなされるにいたつたことが、前記各供述によつて窺われるように思われるのである。もつとも他方検察官側の証人である、萩原寅次は「革マル派と反革マル派のトラブルは、当時(昭和四八年五月八日当時)連日のように続いた。」「五月の連休が明けたころからトラブルが続いており、革マル派が集まつているころに反革マル派が押しかけたということもあつたようです。」「現実に負傷者も出ています。」と述べ、また金子幸雄は「昨年(昭和四七年)一一月以降、早稲田大学構内で革マル派、反革マル派両派の内ゲバがあつて、そのたびに警戒配備に出動し、その際両派の衝突を実際に見ている。」「反革マル派学生が革マル派学生に対して攻撃をかけたということを聞いている。革マル派学生を反革マル派とが、主導権を握るためには生命を辞さないという意気込みで、たがいにやつているというふうに聞いている。そういうことは、去年一一月ころから今年にかけてしよつちゆうでした。反革マル派が 革マル粉砕 ということはよく言つていた。」「竹竿や旗竿を持つて追いかけまわしているのは見ました。」と供述しており、これらによると、革マル派の学生が同派に対して反対ないし批判的な立場に立つ学生らに対して前記のような攻撃を加えたという事実のあることはさておくとして、後者学生らも、また、革マル派との主導権争いをめざして、竹竿や旗竿などを持つて革マル派の学生らを追いまわしていたこともあり、そのため現に革マル派側にもけが人が出ていることをまつたく否定するわけにもいかないように思われる。しかし、同時にまた、前記萩原証人は、そのいわゆるトラブルなるものが、いつどこであつたのか、そして、誰がどういうことで負傷したのか、具体的なことは言えないと述べているし、さらに、前記金子証人も、「自分が実際に見た両派の衝突がどういう衝突であつたか思い出せない。」とか、「革マル派、反革マル派のどちらの派が竹竿や旗竿を持つて追いかけまわしていたのかわからない。どちらの学生がどんな色のヘルメツトをかぶつていたかも忘れてしまつた。」などと供述しているところから考え、とくに、金子証人は、その当人の言うところによると、左足のけがのために昭和四八年三月末以降本件当日にいたるまでその種学生間のトラブルについての警戒配備の任には就いていなかつたことになるから、その点も合わせて考慮すると、右両証人の供述だけをもつてしては、いわゆる反革マル派の学生らが革マル派の集会などに対してシユプレヒコールを口にしながら異議を唱えに行つた事実の認められることは、さきにも述べたとおりであるとしても、さらにすすんで、その学生らが竹竿などを手にして革マル派に対し、先制攻撃を加え、または迎撃の挙に出た事実のあることまでを確認するのはいささか困難であるといわざるを得ないし、また、川口大三郎事件

発生後の過程において、革マル派以外のセクトに属する学生の集団が外部から学内に立ち入り、学内における反革マル派の学生らと合流して革マル派に攻撃を加えた事実のあることを窺わしめるに足る証拠も、少くとも本件においては別段提出されていない。

ところで、それはともかくとして、川口大三郎事件発生後の過程において早稲田大学の構内で革マル派とそれに対立する学生らとの間にいわゆるトラブルが続発していたことはまちがいない事実であり、また、ほとんどその都度所轄戸塚警察署その他の警察官らが出動して、警戒配備の任に就いていたことも容易にこれを窺い知ることができる。そして、昭和四八年五月一六日、前記のとおり翌一七日に予定されていた村井総長と学生らとの集会をとりやめる旨を発表したのを契機として、これに不満の念を抱く反革マル派の学生らが、その一七日に革マル派に対して攻撃を加えるおそれがあるとの情報が入つたので、そのような情勢に対処するため、所轄戸塚警察署においては即日同署に「現場警備本部」を設置し、署長松浦洋治が本部長となつて部隊の編成を行ない、警戒警備の体制を整えたうえ、翌一七日午前六時二〇分ころ、同署の警ら課長、警部萩原寅次は、違法行為者の取締り検挙およびその現場における交通整理等の任務を帯び、中隊長として金子幸雄、鈴木雄司ら計一一名の部下警察官らを引率して同署を出発し、はじめはいつたん早稲田大学正門付近におもむき、そのころ相前後して出動して来た第二および第七各機動隊のそれぞれ一個中隊とともに同所周辺の警備に就いたが、その後、「反革マル派とみられる一五〇名くらいの集団が都電大塚停留所から早稲田方面に向かつた。」、「その一五〇名くらいの学生集団は、面影橋停留所で下車して、甘泉園公園の方に向かった。」、「その集団は、その後、甘泉園公園を通過して、戸塚一丁目の方向へ進んでいる。」などという情報を相次いで捕捉したので、自己の指揮下にある前記部隊をひきいて、都電早稲田停留所および面影橋停留所等を経て、同日午前七時五五分ころ、第七機動隊の一個中隊とともに早稲田大学西門に通じる戸塚一丁目交差点に移動した。ところが、そのとたんおりから甘泉園公務員住宅方面から右交差点に出る路地の五〇メートルくらい奥にある駐車場のあたりにたむろして、旗竿や竹竿等を持ち、かつ、半数くらいは赤色あるいは白色のヘルメツトをかぶり、中には覆面をしている者もまじつている学生とおぼしい集団が、口ぐちに「早大解放、革マル粉砕―あるいは革マルせん滅―」などと叫びながらいきなり駈足でそのまま右交差点内に突進して来たので、同所を警備していた前記第二および第七機動隊員がこれをさえぎり、三~四分後には同集団を順次馬場下交差点方面に規制して行つた。そこで前記萩原寅次の指揮する警察隊員らは、戸塚一丁目交差点かいわいに放置されたまま散乱していた旗竿や竹竿二一〇本くらいと鉄パイプ三〇本くらいおよび前記駐車場内にまとめて置いてあつた鉄パイプ一五〇本くらいを取り集めていずれも輸送車に収容した後、さらに、右交差点から一五〇メートルくらいの距離にある前記甘泉園公園内に同様の鉄パイプなどが遺留されているかどうかを検索するため、右萩原および前記金子が、鈴木ほか二名の警察官とともに同公園におもむき同園内を手分けして探索したが、格別めぼしい物件も見あたらなかつたので、そこを引き揚げようとした際、たまたま甘泉園公務員住宅側の出入口から同園内に入り、面影橋側の出入口方面に向かつて行つた五〇名くらいの学生らしい集団が通過したのち、さらにその後方から判示の紙袋を手にさげて歩いてくる被告人らの姿を認めたとたんに、被告人らは、にわかに反転して、元の方向へ駈け出して行つたので、その挙動をあやしんだ金子巡査がただちにこれを追跡し、その後応援のために参加した鈴木巡査の協力を得て、同公園の南側にある右甘泉園公務員住宅の構内で被告人両名とほか一名の氏名不詳者(以下、単に被告人らというときは、この三名を指す。)に追いついた後、金子巡査は被告人小山を、鈴木巡査は被告人佐久間を、いずれも兇器準備集合罪の現行犯人として逮捕したが残る一名は逮捕を免れて、その場から迯走したのである。

そこで進んで本件における争点についての判断に入ることとする。

第一  本件当時、甘泉園公園内で、被告人両名と右氏名不詳者一名とがそれぞれ手提紙袋(以下、単に紙袋という。)一個を携帯していてそれらが現在当裁判所に押収されており(昭和四八年押第三九号の3、5および11)、そのうち、ビニールで覆つてある茶色の一個(深さ約四四センチメートル、縦約二七センチメートル、横約一〇センチメートル)(同押号の3)には鉄パイプ一八本(長さ約三六センチメートルないし約四五センチメートルで、そのうち、接続できるようになつている二本以外は、全部、一本、一本が新聞紙で巻いて包んである。)(同押号の1)とヌンチヤク二組(前同押号の2)、同じくビニールで覆つてある右と同色の一個(深さ、縦、横ともに、いずれも、前の分と同じ。)(同押号の5)には鉄パイプ二八本(長さ約四三センチメートルないし約四五センチメートルで、そのうちの一本だけは一部が新聞紙に包まれているが、その他は、全部、前同様新聞紙で巻いて包んである。)(同押号の4)、白色の二重になつている一個(深さ約四一・五センチメートル、縦約三二センチメートル、横約一二センチメートル)(同押号の11)には鉄パイプ一一本(長さ約三五センチメートルないし約五三センチメートルで、全部、前同様やはり新聞紙で巻いて包んである。)(同押号の9)、がそれぞれ収納されており、そして、被告人佐久間が当時、右白色の紙袋を携帯していたことは、証拠上も明らかであるし、また、当事者間にも争いがない。ところで、他の茶色の紙袋二個のうちそのいずれを被告人小山が携帯していたのかの点については、検察官もこれを判別し難いとしているし、同被告人もこの点に言及することを避けており、弁護人も、また、同被告人がはたしていずれの紙袋を所持していたかは証拠上明白でないと言つているから、この点は、別段、争点となつているわけではないが、それはそれとして、弁論再開後に行なつた当裁判所の検証の結果をもふくめた関係証拠に徴すると、なお考慮の余地があるように思われる。被告人小山が逮捕されるより前の時点において、右二個の紙袋が前記公務員住宅のRA棟東側に接続して設けられてある焼却場北側の焼却炉と同RA棟の壁体との間の幅約二〇センチメートルの隙間に縦にならべるようにしてかくされていたことは明らかであり、それが被告人小山ほか一名の氏名不詳者のそれぞれの所為によるものであることは、疑いをいれる余地がない(当裁判所の検証調書添付の写真19参照)。そして、右検証に立ち会つた金子巡査は、被告人小山を逮捕する直前その手前の方の袋の中を見た、と指示説明し、また、第三回公判期日に当公判廷で、その隙間にいれてあつた紙袋の口を両手であけて見たら、鉄パイプとヌンチヤクが入つていた、と証言している(もつとも、弁護人は、同巡査が、被告人小山の逮捕にとりかかるまでの間に右のような行動をとるだけの時間的余裕があつたかどうか疑わしい、と言うが、その点については同巡査による職務質問の有無の問題と合わせて、後に、当裁判所の見解をくわしく述べる。)。ところで、その焼却場内には被告人両名と前記氏名不詳者一名の計三人が相前後して迯げ込んでいるが、そのうち、被告人小山が最後に走り込んで来たものであることは、金子証人の証言をまつまでもなく、同被告人自身もこれを認めているのである。そうすると、被告人小山より先入した右氏名不詳者がまず自己の手にしていた紙袋を前記の隙間にかくした後、つづいて被告人小山もその所持していた紙袋を同所にさしいれたと考えるほかはないが、そのようなばあいに、先入者が、その紙袋を、隙間の奥の方にかくさないで、わざわざ比較的外部から見やすい入口の近辺にさし置くなどということは、なにか特別の事情でもない限り、普通は考えられないから、その際、右先入者の紙袋がまず隙間の奥の方にさし込まれた直後、同じくその場に駈け込んで来た被告人小山が所携の紙袋をいそいでその手前側のあいている場所に突つ込んだものとみるのが自然である、といわざるを得ない。したがつて、このように順を追つて考えてくると、被告人小山が携帯していたのは手前側に置いてあつた紙袋(鉄パイプ一八本、ヌンチヤク二組在中のもの)であり、氏名不詳者の携帯していたのは奥の方にいれてあつた紙袋(鉄パイプ二八本在中のもの)であることの可能性が相当多いと思われるが、他にこれを確認するに足る特段の証拠もないから、この際、断定をさしひかえるのが相当であろう。

第二被告人両名と前記氏名不詳者一名とが本件の鉄パイプやヌンチヤクを「隠して」携帯していたと認められるかどうかの点について

軽犯罪法一条二号は、鉄棒その他人の生命を害し、または人の身体に重大な害を加えるのに使用されるような器具を「隠して携帯していた」ことを構成要件としている。被告人両名および前記氏名不詳者一名の携帯していた本件の鉄パイプやヌンチヤクが、右にいう「人の生命を害し、または人の身体に重大な害を加えるのに使用される器具」にあたることは、多く言うまでもない。ところで、右の「隠して」ということの意義について、通説は、「一般社会生活上接触する他人の通常の視野には入つてこないような状態におくことをいう。つまり、普通では人の目にふれにくいような状態で携帯していれば足り、とくに身体検査などをしなければ発見できない程度にまで達している必要はない。」、「一般社会生活上これに接する他人に対して通常の視野からかくされていることをいい、特別の検査を必要とする程度であることを要しない。」、「一般社会生活上これに接触する他人の視野からかくされている状態をいう。すなわち、他人の目にふれないような状態において携帯すれば足り、特別に身体を披検しなければ発見できないような状態であることを要しない。」、などと説いており、そして本号にこの要件を加えたのは、公然携帯しているばあいには人に警戒心をおこさせるから、その行為自体としては、危険性がすくないが、隠して携帯しているばあいにはそのようなことがなく、一般に、その危険性が高いとみられるからである、と説明しているが、要するに、その趣旨とするところは、たとえば、ナイフを、「ポケツトにしまつておく」、「バンドにはさんで上衣の下にかくれるようにしておく」、あるいはまた、「折りたたんで手の中ににぎり、外から見えないように持つている」、などのばあい、それが「隠して」にあたることはいうまでもないが、そのように完全に隠蔽されているばあいに限られることなく、一般社会生活上における普通人の注意力を基準とし、通常の視野の範囲内においては、前記のような危険な器具の本体の存在を一見して容易に看取し得ないような状態におかれていれば、それでこの「隠して」の要件を充足する、というにあるものと解せられるのであり、これは、右の要件を、その保護法益にてらして、合理的に解釈しようとするものであつて、けつして弁護人のいう厳格解釈の要請を無視するものとは思われないから、当裁判所もこの見解を相当と考える。したがつて、たとえ、至近の距離に接着して注視すれば、その器具らしいものの存在することが窺われるようなばあいでも、それだけで、ただちに、「隠して」の要件に該当しない、ということにはならない。もつとも、一部の学説のなかにはこの種の器具を公然携帯している方が危険がないとはいえないことを理由として、この要件は蛇足であり、その適用範囲を解釈論的にできるだけ拡張すべきである、との見解もあるようであるが、もともと本号に規定する外形的行為は、日常生活において業務上の必要その他の理由で、しばしば抽象的な危険もなしに行なわれる性質のものであることにかんがみると、この「隠して」の要件は、後述の正当な理由のないこと、およびそのような態様における兇器等の携帯が危険性を伴うことの徴表としての意味をもつものと考えられるから、本号の乱用を防止するために有意義な要件であるといわなければならない。ところで、本件において、被告人両名および氏名不詳者一名が携帯していた紙袋の大きさと、それぞれの紙袋の中に収納されていた鉄パイプの長さの概略は、前記のとおりであるが、さらにこれをふえんすると、第一の紙袋(同押号の3)に在中の鉄パイプ一八本(同押号の1)のうち、その紙袋の深さ約四四センチメートル以上の長さのものが五本(一本が四四センチメートルくらい、二本が四四・五センチメートルくらい、一本が四六センチメートルくらい、二本は四八センチメートルくらい、一本が五〇センチメートルくらい、ただし、いずれも新聞紙等で巻いて包んであるもの)、第二の紙袋(同押号の5)に在中の鉄パイプ二八本(同押号の4)のうち、その紙袋の深さ約四四センチメートル以上の長さのものが八本(三本が四四センチメートルくらい、一本が四四・五センチメートルくらい、二本が四五・五センチメートルくらい、一本が四六センチメートルくらい、ただし、いずれも、新聞紙等で巻いて包んであるもの)、第三の紙袋(同押号の11)に在中の鉄パイプ一一本(同押号の9)のうち、その紙袋の深さ約四一・五センチメートル以上の長さのものが八本(四一センチメートルくらい、四一・五センチメートルくらい、四三・五センチメートルくらい、四四・五センチメートルくらい、四五センチメートルくらい、五三センチメートルくらいのもの各一本、四二・五センチメートルくらいのもの二本、ただし、いずれも、新聞紙で巻いて包んであるもの)

であり、また、それら鉄パイプの直径は、いずれも、二センチないし二・五センチメートルである。したがつて、これらの鉄パイプがやや斜めの状態でそれぞれの手提紙袋の中にいれられてあつたとしても、被告人らがそれらの紙袋を手にさげているばあい、各自の紙袋の深さより長い前記鉄パイプのうちの何本かが客観的には、その袋からじやくかんはみ出す状況になつていたことは、これを推知するに難くない。弁護人は、この点をとらえて、「被告人らの兇器所持は、兇器の先端が紙袋から出ており、あるいは、通常の注意力をもつてすれば、きわめて容易に兇器所持を現認し得る」から「隠し持ち」に該当しない、という。しかし、被告人らが白昼の路上で手にさげていた紙袋は、いずれも、格別に人の注意をひかないような普通の買物袋の外観を呈しているばかりでなく、在中の鉄パイプのほとんど全部は、前記のとおり、新聞紙で完全に巻いて包んであつたのであるから、たとえその新聞紙で巻かれている鉄パイプのじやくかんのものが紙袋の口から多少はみ出していても、一般社会生活上における普通人の注意力を基準として考えてみると、通常の視野の範囲内においては、それらのものに気づかないことが多いであろうし、かりに一瞥したとしても、それらが鉄パイプというような危険な器具であることを即座に看破するのはとうてい期待し難いところである、といわなければならない。この点につき、検察官が、昭和二八年三月九日宣告の高松高等裁判所の判決を援用して、「本件鉄パイプは、数本を除いて、他は全部新聞紙等で巻いて包んであるうえ、紙袋にいれてあつたのであるから、『隠して』いたことは明白である。」と主張しているのに対し、弁護人は、「右判例の事案は、竹竿の先端を削りとがらせた部分だけを新聞紙に包みこんでいたもので、まさに竹竿に兇器性を具備させる部分そのものを隠し所持していたのであるが、本件の鉄パイプに新聞紙を巻きつけたのは、その態様からも明らかなように鉄パイプの所持を隠すためではなく、むしろ、新聞紙が巻きつけられた鉄パイプ自身が兇器と言い得るものである。」、と反論する。なるほど、右判例は、先端部を斜めにとがらせた長さ約一・五メートル大の竹棒二本のその尖端部分約一尺くらいを新聞紙で包み、とがつていることを隠して携帯していた、という事案についてのものであるから、それと本件とを比較するうえにおいて、弁護人のいうような見解も生じ得るであろうが、本件の鉄パイプのほとんど全部が、一本、一本、その両端にいたるまでの部分をまんべんなく新聞紙等で包みこまれているところからみると、たとえその包み紙等の上のところどころに荷造り用のテープが貼り付けられていて、容易に剥ぎ取られないような状況になつていることを考慮のうちにいれても、やはり、それには鉄パイプとしての外観を隠そうとする意図もふくまれている、と解するのが常識的な見方でもあり、また、たしかに弁護人の指摘するとおり、本件のように新聞紙等が巻きつけられている鉄パイプも、それ自体、依然として兇器と言い得ることはまちがいないにしてもこのばあいの問題は、それらのものが巻きつけられている鉄パイプ自体が、なお、兇器と言い得るかどうかにあるのではなくて、鉄パイプを新聞紙等で巻き包むことがその鉄パイプたる本体を、一見して、まぎらわしくするかどうか、という点にあるのであつて、これを前記基準にてらしてみると、それによつて、やはり、鉄パイプたる本体が一般人の視野からは「隠される」ことになると、考えてしかるべきであるから(さきに、これらの新聞紙等で巻かれている鉄パイプのうちのじやくかんのものが紙袋の口から多少はみ出していても、一般には、なお、それが鉄パイプであると即座に看破することは期待し難い、と述べたのは、右の点を考慮したうえでのことであるのはいうまでもない。)、検察官が、これに加え、それらの鉄パイプが紙袋にいれられていたことを挙げて、その主張の支えにしていることに過りがあるとは思われない。もつとも、一方において、貨物自動車の荷台上に鉄棒、鉄パイプなどを満載し、その上にシートがかぶせられていた事案や、自己の運転する乗用自動車の運転席とその右側ドアーとの間の床上に木刀一本をはだかのままで置いておいた事案につき、いずれも、「隠して携帯していた」ものとは認められない、とした裁判例のあること(昭和四四年七月四日京都地方裁判所決定、昭和四八年二月一九日京都簡易裁判所判決)も、もちろん考慮の外に逸してはならないが、前者は、その鉄棒や鉄パイプの上にシートがかぶせられてはいたが、当該自動車の後方から、一見して、それらの物件の存在することが明確に現認できる状況にあつたと認められる事例であり、また、後者は、その木刀の置かれていた位置および状況などからして、

とうてい「隠して」いたとは認められないとされた事例であるから、いずれも本件とは事案を異にするものであつて、それらの例によつて本件が律せられるべきすじ合いのものとは思われない。

ところで、さらに、本号の要件としては、当該本人らが、鉄パイプなどを「携帯する」意思のほかに、それが「隠された」状態にあることについての認識をもつことが必要であることはいうまでもない。しかし、本件において、被告人両名および他の氏名不詳者一名が、みずからその紙袋に鉄パイプなどを収納したと認めうる確証はなく、また、それらの物の収納されるのを目撃していたことを窺うに足りる証跡も見あたらないにせよ、被告人両名が各自の携帯していた紙袋の中に新聞紙等で包まれた複数の鉄パイプのあることを知悉していたことは、当公判廷におけるそれぞれの供述によつても明らかであるし、(ちなみに、被告人小山の当公判廷における供述によると、同被告人は、その紙袋を手にしてから後で中をあけて見ているとのことであるから、もし、その紙袋が鉄パイプ一八本およびヌンチヤク二組在中の前記第一のものであつたとすれば、その中にヌンチヤクの入つていることも当然わかつていた筈である。)また、迯走した氏名不詳者一名についても、同人が、前記甘泉園公園内で、被告人両名と軌を一にしてにわかに反転し、元来た方向に駈け去つて行つたのは、被告人らと同様前方の地点に前記金子巡査のいる姿を目撃したためであると推認されるばかりでなく、その後迯走の途中で前記のとおり、甘泉園公務員住宅RA棟東側焼却場内の焼却炉と同RA棟の壁体との隙間に所携の手提紙袋を隠していると認められることや、同人が携帯していたその紙袋の重さ(それが、鉄パイプ一八本とヌンチヤク二組とが入つていた前記第一の紙袋とすればその重量は約七・五九キログラムであり、また、鉄パイプ二八本在中の前記第一の紙袋とすれば、その重量は約八・七キログラムである。)などからすると、やはりその紙袋のうちに同様新聞紙等で包まれた複数の鉄パイプや、あるいはそれに加えてヌンチヤク二組のいれてあることは、同人もよくこれを承知していたにちがいない、と思われるから、被告人両名および右氏名不詳者一名が、前記のような状態で本件鉄パイプやヌンチヤクがいれてある買物袋ようの紙袋を携帯していたという事実自体によつて、おのずから、それらの器具ないしその本体が、通常の視野の範囲内においては、一見して、普通人目につかないような状態におかれていたことについての認識を有していたものと推認せざるを得ないのである。もつとも、これら三名の者が前記のとおり前方の地点に金子巡査の姿を認めるや、にわかに反転して、いずれも一散に元来た方向に駈け戻つて行つたのは、各自所携の紙袋内にいれてある鉄パイプやヌンチヤクなどの発見されるのを恐れたためであることは、これを推測するに難くないから、この点をとらえて、これは、当時、被告人らがそれらの器具を「隠している」との意識をもつていなかつた証左であるとの反論のありうることも考えられないわけではないが「隠す」意思があつたかどうかは、さきに掲げた基準にてらして右に述べたとおり、当該本人らにおいて、それらの器具ないしその本体が通常の視野の範囲内においては、一見して、普通、人目につかないような状態におかれてあることを認識していたかどうかによつて決せられるべきものであつて、これが肯定される以上は、本件のような異常のばあいに警察官が至近の距離に接着すればそれが発見されるかも知れないとの危惧の念を抱いて迯走したからといつて、それが右の認定の妨げとならないばかりか、かえつて、被告人らにそれらの器具を「隠さず」に公然携帯する意思のなかつたことを示唆する証左である、といわざるを得ない。

第三被告人両名と前記氏名不詳者とが本件の鉄パイプやヌンチヤクを隠して携帯していたことについて、正当な理由があるかどうかの点について

「正当な理由がなくして」という文言は、単に軽犯罪法一条二号に限らず、同条一号、三号、六号、八号、一二号、一九号、二三号および三二号にも見られるが、それは、同条七号、二〇号、二七号および三三条にいう「みだりに」または刑法一三〇条にいわゆる「故なく」と同様違法性の原則を表現したものにほかならないのであつて、外見上同種の行為が、日常の社会生活において違法でなく行なわれるばあいが多いのにかんがみ、当然の事理をとくに明記したものと解せられるから、「正当な理由」があるかどうかは、具体的事案に即し社会通念によつて決せられるべきである。したがつて、軽犯罪法一条二号所定の器具をたとえば鞄や袋などにいれて持ち歩いても、それについて社会通念上是認されるような理由があれば、「正当な理由がなくて」にあたらないこともありうるが、そうでないばあいには「正当な理由」があるとはいえない。本件において、検察官は、「被告人らが、いわゆる革マル派学生らに対する攻撃もしくは、同派学生らが襲撃されたばあいの武器として使用する目的であつたことは総長団交をめぐる革マル派学生らとの緊迫した対立抗争の状況、鉄パイプ等の本数、形状等の客観的諸情況から十分推認できる。」と主張する。なるほど、総長団交をめぐり当時早大構内等において革マル派学生とこれに対して批判的な立場をとる学生らとの間に緊迫した対立抗争の状況がかもされていたことは、冒頭に摘記したとおりであり、これら事態の推移などからみれば、本件鉄パイプ等が収集準備された頭初の目的が本件当日右反革マル派学生らが総長団交の実現をせまる過程において、革マル派学生らがこれを阻止しようとしたばあいに、同人らを撃退するための武器として使用するにあつたことは、これを推測するに難くはない。しかし、すくなくとも、本件において掲出された証拠によつて判断する限りにおいては、後にも述べるとおり、被告人らが、右鉄パイプ等の兇器を準備するについての事前の謀議に関与したことを窺わしめるに足る確証はないし、また、本件当日被告人らが右鉄パイプ等在中の紙袋を手にするにいたつた経緯なども明らかでないばかりでなく、そもそも、当時被告人らより先んじて甘泉園公園に入つて来た五〇名くらいの学生らしい集団が、検察官の言うように、さきに戸塚一丁目交差点で機動隊に規制された一五〇名くらいの集団の一部またはその後続部隊としてその際同じく早大の構内に突入しようとしていたのかの点について被告人小山の当公判廷における、「本隊の意思はわからないが、多分そこから歩いて大学へ行く目的だつたと思う」旨の供述を充分考慮するとしても、なお、合理的な疑いをいれうる余地があり、むしろ、その集団員各自の携帯品や同集団の進行方向、さらにはまた、その後、早大近辺にそれとおぼしいものの姿がまつたく認められなかつたことなどを総合して考えると、その集団は戸塚一丁目交差点に進入してきた前記集団と直接の関係はなく、しかも、当日における早大周辺の警察当局による警戒の厳重なことを察知したか、あるいはその他何らかの理由によつて、早大の構内に立ち入る予定を変更し、その付近から撤収、退避する途中にあつたのではないかと推察しうる可能性のあることもたやすく否定できないように思われるから、そうすると、その集団と行をともにしていたと認められる被告人らが、たとえその携帯していた本件鉄パイプの本数や形状(ちなみに、これらの鉄パイプは、前記のとおり、そのほとんどの全部が、一本、一本新聞紙等で巻き包まれていたのに対し、戸塚一丁目交差点かいわいや付近の駐車場に遺留されてあつた一八〇本くらいの鉄パイプは、あるいは竿などの中にさし込まれていたり、またはむき出しのままになつていた。)などを考慮してみても、その時点において、検察官の主張するように、「革マル派学生らに対する攻撃もしくは同派学生らから襲撃されたばあいの武器として使用する目的」でそれらのものを携帯していたと断定するのは、いささか速断に過ぎるきらいがあるといわざるを得ないことになる。このような観点に立つても、被告人両名およびほか一名の氏名不詳者がその携帯している本件の鉄パイプなどが収集準備された前記のような頭初の目的を察知し得ない筈はないから、それにもかかわらず、それらの器具を隠して持ち歩いていたことは、社会通念上とうてい是認され得ないものといわざるを得ないのであつて、被告人らがそれらの物を持ち運ぶようになつた経緯について論じているところを充分検討しても、それが「正当な理由」になるとは思われないし、また、被告人らもそのことをよく承知していたからこそ、金子巡査の姿を見たとたん、一斉に、踵を返して迯げ去ろうとしたものと考えられるのである。

第四本件鉄パイプ等を隠して携帯していたことが共同正犯となるかどうかの点について

共同正犯の成立要件としては、二人以上の行為者に、主観的に共同実行の意思すなわち、共同加功の意思(意思の連絡)があることと、客観的に共同実行の事実すなわち、共同加功の分担が認められることを必要とする。そして、右の共同加功の意思とは、行為者相互間に、共同犯行の認識があり、かつ、たがいに他の者の行為を補完利用し、全員協力して特定の構成要件に該当する事実を実現させる行為を共同にする意思をいうものと解せられるから、単に他人の犯行を認識しているだけでは共同実行の意思があるとはいえないし、また、共同実行の意思は特定の構成要件の内容たる犯罪事実の全部に及ばなければならないが、他面、共同実行の意思は、当該行為の際に存すれば足り、事前に共謀し、あるいは打合せなどがなされたことは必要でなく、実行行為にさいし、または実行行為の途中で成立することもありうるばかりでなく、さらに、その意思は、必ずしも明示的方法によつて生じたものであることを要せず、行為者相互間に前記のような関係についての暗黙の認識と諒解とがあれば足り、また、この意思の連絡なり相互理解なりの主観的事実は、社会通念にてらし、当該行為者らの外形的挙動等についての証拠により、間接的にこれを推認することも、もとより、許されてしかるべきものであり、したがつて、これらの要件が充足されれば、たがいに面識もなく氏名もわからない数人の間において共同実行の意思の成立は妨げられるものではないのである。そこでこれらの点を念頭に置いて、本件における共謀の関係成立の有無を検討する。この点についての検察官の所論は、要するに、(1)被告人らは、三名一団となつて、いずれも鉄パイプ等在中の紙袋を携帯して、五〇名くらいの学生集団のあとから、その集団に追いつこうとして、足早に水稲荷神社前付近から甘泉園公園内に入つて来たが、金子巡査の姿を見て迯走したこと、(2)この五〇名くらいの集団はさきに戸塚一丁目交差点で機動隊によつて規制された前記一五〇名くらいの集団の一部またはその後続部隊であることは、右集団の一部が戸塚二丁目方向に分散したと見られることや、戸塚一丁目交差点で学生集団が規制された時刻と約五〇名の集団が甘泉園公園内を通過しようとした時刻とが接近していること、ならびに付近の地理的関係からして、容易に推認されうるところであり、そして、同交差点に突進してきた集団が諸般の状況からみて早大構内に突入して、総長団交を強行し、これを阻止しようとする革マル派学生に対しては、兇器をもつて攻撃ないし防禦のための実力行使に出ようと意図していたことは明白であるから、その一部である甘泉園公園内における五〇名くらいの学生集団も同じくそのような実力行使の意図をもつていたものと認められること、(3)被告人らは、その所持していた鉄パイプ、ヌンチヤクの数量が、その追随していた集団の学生の数とほぼ符合していることなどによつても、近時の過激派学生と呼ばれる集団暴力事件においてしばしば見られる兇器の運び屋である、と認められるばかりでなく本件当時、被告人小山は左肘に肘あてを、被告人佐久間は左前腕に小手あてをそれぞれ着用しており、しかも、被告人小山は前述の総長団交のための団交実行委員会のメンバーであり、被告人佐久間は同委員会のクラス委員であつて、いわゆる活動家であるところからみると、被告人らはいずれも、かねてから面識のある間柄であつたことはもちろん、本件のばあいも、各自が偶然に集団の後から鉄パイプ等在中の紙袋を携行して行つたというような単なる運び屋の役割を担当していただけではなく、みずから積極的に革マル派学生らと闘争する覚悟でその用意をして集まつたものであり、さればこそ、また、被告人らは金子巡査の姿を見るやいつせいに反転し、三名かたまつて同じ焼却場内に迯げ込むなどという共同の動作をとつたもの、と思われるうえに、被告人らから押収された鉄パイプ五七本の太さ、長さ、その包装の状況などほとんど共通している点からしても、これらは、いずれも、被告人らが共同してあらかじめ準備したものであることが明らかに推認されること、などを総合すると、被告人らが、革マル派学生らに対する攻撃ないし、防禦という共同目的をもつて、意思相通じ、その共同行為をとる準備として、鉄パイプ等を紙袋の中に隠して携帯していたものであることは疑いをいれる余地がないというにある。そして、これに対して弁護人は、(1)、戸塚一丁目交差点で規制された約一五〇名の集団は、赤色あるいは白色のヘルメツトをかぶつたいわゆるセクトに属する者たちであるのに加えて、竹竿あるいは鉄パイプ等を所持しており、口ぐちに「革マルせん滅」などと叫んでいたのに対して、被告人らの属する当日の約五〇名の自治会系ノンセクトの学生らはただ手荷物をもつているだけであつて、しかも

「革マルせん滅」のスローガンも掲げていない等、前記集団とまつたくその様相を異にしていたこと、(2)当日午前八時ころ戸塚一丁目交差点で機動隊員らに規制され、馬場下交差点方向に誘導されて行つたという前記一五〇名くらいの集団の一部である約五〇名もの集団が、そのような規制を受けながら、わずか三〇分くらいの間に服装持物等を整え、当日警備のために出動していた多数の警察官にもまつたく気づかれないうちに、馬場下交差点方向から甘泉園公園まで戻ることは、付近の地理的状況および警備状況からしてほとんど不可能であるばかりでなく、仮に戸塚一丁目交差点で規制された集団の一部が戸塚二丁目交差点の方向へ行つたとしても、それから約三〇分近くもの間、五〇名もの多数の学生が警備の警察官らの目を迯れて、右戸塚一丁目交差点のすぐ近くにある甘泉園公園のかいわいに停滞していたとか、あるいは、再度態勢を建直し、かつ、持物等を整理したうえ、いまだ接触現場の後始末等もすんでいない同交差点付近に向つた後すぐ反転して甘泉園公園内に立ち入つたとかみるのは不自然であるから、本件約五〇名の学生集団を前記戸塚二丁目方向に分散して行つた集団と同一視することもできないこと、(3)被告人両名の当公判廷における各供述によると、被告人小山は、早大社会科学部の学生であり、前記川口大三郎事件が起こつてから、いわゆる革マル派とこれを許した大学当局とを弾圧する運動に参加して、同学部自治会常任委員会の一員として自治会活動をしていたもの、同じく被告人佐久間も右事件以来教育学部のクラス団交実行委員会のメンバーとして運動していたものであるが、右両名とも、たまたま本件当日、面影橋停留場付近から甘泉園公園まで一〇分間くらい同じ集団とともに歩いていたが逮捕されるまでたがいに面識もなく言葉をかわしたこともないこと、などを挙げて、被告人両名は、それぞれ自己の所属する学部の自治会あるいは団交実行委員会の一員として、それらの集団との間に一定の心理的協感関係にあつたとしても、ただちに被告人両名のほかに氏名不詳者一名をもふくめた三名の間に意思の共同があつたと認めるに足るなんらの事実もないばかりか、本件当時においては各自バラバラに離れて歩いていたのであるから、すくなくとも被告人佐久間およびその前方を行くもう一名の者は数メートル後方を歩いていた被告人小山にはまつたく気づいていなかつたのであり、たとえ途中で反転した段階において、被告人佐久間が、被告人小山に気づき、その後氏名不詳者一名をも加えた三名相前後して同様の迯走経路をとつたとしても、それはむしろ、心理的、反射的な行為であると認められるから、このばあい黙示の共謀という認定をすることも困難である、と反論する。

さて、本件の背景になつているとみられる事情と被告人両名が逮捕されるにいたつた成行きとのあらましは、冒頭に摘記したとおりであるが、被告人小山が、早大社会科学部の学生であり、川口大三郎事件を契機として、革マル派および右事件の事後処理についての大学当局の責任を糺弾する学生運動に参加し、同大学内における革マル派全学連執行部をリコールする旨の決議がなされた後、同学部自治会常任委員会の一員として自治会活動に専念するとともに、他方、団交実行委員会のメンバーとして総長団交の実現に努めていたこと、被告人佐久間は、同大学教育学部の学生であり、右団交実行委員会の同学部におけるクラス委員であることは、被告人両名の当公判廷における各供述によつて明らかであり、また、本件当時、甘泉園公園内で被告人両名と氏名不詳者一名とが、前者のとおり、鉄パイプ、または鉄パイプとヌンチヤク在中の紙袋を携帯していたことはまちがいない。そこで、まず、検察官の前記(2)の主張について考えてみる。証人萩原寅次(一、二回)、同金子幸雄(一回)、同鈴木雄司の当公判廷における各供述を総合すると、戸塚一丁目交差点で機動隊員に規制された約一五〇名の学生らしい集団の半数くらいは赤色または白色のヘルメツトをかぶつており、それに旗竿や竹竿などを持つたり、覆面をしたりしているものもいて、その竹竿の大部分はふしを抜いて鉄パイプを中にさし込んであつたというし、それにその竿類は手に持つて立てたままにしていたとはいえ、口ぐちに「革マルせん滅」とか「革マル粉砕」とか叫びながら機動隊に向かつてつつ込んで来た、というのであるから、そのような激しい行動や当時における早大の内外をめぐる緊迫した状況、さらにはまた、右戸塚一丁目交差点が早大西門に通じる道すじにあたつていることや、付近の駐車場内になお一五〇本ぐらいの鉄パイプが遺留されてあるのが発見されたことなどを思い合わせると、たしかに、検察官の指摘するとおり、この集団は、総長団交を強行する目的で早大構内に突入しようとしていたものであり、その際、これを阻止しようとする革マル派学生らに対しては、攻撃ないし防禦のためにそれらの兇器をもつて実力行使に出ようとする意図を有していたことはまちがいないものと思われるばかりでなく、前記駐車場に遺留されていた多数の鉄パイプが散乱した状態ではなく、いくつかの山に積み上げてまとめて置かれてあつたことからすると、その駐車場が、頭初その付近の道すじにたむろしていたという前記集団の発進した場所であり、そこに集積されていた鉄パイプは後刻到着を予定されていたいわゆる後続部隊の用に供するためのものであつたとも推測できないことはないようである。しかも機動隊員によつて馬場下交差点方面に規制された右集団の一部が反対方向の戸塚二丁目交差点の方へ分散して行つたとすると、その後三〇分くらいして前記戸塚一丁目交差点からさほど遠くない甘泉園公園内に進入してきた本件約五〇名の集団は、さきに機動隊に規制された集団の一部かまたはその後続部隊として同じ目的で早大構内に突入しようとした学生集団である、と推認するのも、それだけをみれば、一概に不合理とはいえないように思われる。しかし、さらによく考えてみると、これについては、なお、つぎのような疑問が残されている、といわざるを得ない。(1)戸塚一丁目交差点で規制された集団員の中には、本件の約五〇名の集団員中の一部が携えていたという紙袋、ナツプサツク、あるいはボストンバツグなどを携えていたものがまじつていたことを窺うに足りる証跡はないし、また、前記のようにその集団の一部が戸塚二丁目交差点の方向へ行くのを見た、と証言している鈴木証人もはじめは、「学生集団のうち一〇〇名くらいは規制されて馬場下の方へ移動し、残りの学生は、駐車場の方へ行きました。」、と述べたが、「残りの学生が駐車場の方へ行つたのを証人は見たのですか。」、とたしかめられると、「いいえ、駐車場の方へ行つたのは現認しませんが……。」、と言葉をにごし、さらに「証人が現認したのはどういうことですか。」と尋ねられたのに対し、「……残りは戸塚二丁目交差点の方へ行つたのは見ております。」、と答えるなど、その供述の正確度は、必ずしも明かでないようにも思われるが(ちなみに、当時同じく戸塚一丁目交差点で交通整理の任にあたつていたという萩原、金子両証人は、いずれも、右のような集団の一部分散の事実を現認していないばかりでなく、とくに、萩原証人が、戸塚一丁目交差点における学生集団が馬場下交差点の方向に規制されていた間において、それとは反対方向の高田馬場方面や、あるいは、甘泉園公務員住宅に通じる路地の奥のいずれにも、学生の集団は見えなかつた、とくり返しはつきり述べていることを看過してはならないし、また、司法警察員

作成の実況見分調書(昭和四八年五月二八日付の分)には「別の学生集団がい集していたところ」と題するNo.28が添付されているが、同見分調書の記載内容をくわしく調べてみても、この写真が、本件現場付近の地理的状況を示す以外に、その標題のような趣旨をももちうるものと解せられる根拠はいささかも見あたらないから、右の写真に依拠して、当時、戸塚一丁目交差点における集団のほかになんらかの別働隊が存在していたものと認定することはできない。)仮に鈴木証人のいうような一部分散の事実があつたとしても、その分散したという集団の中に前記のような物件を所持していたものがいた、という形跡は、少しも見あたらないうえに、戸塚一丁目交差点および前記駐車場内に放置または遺留されていた鉄パイプは、長さが四~五〇センチメートルから一メートル余に及ぶものであり、しかも、そのほとんどがいずれもむき出しで紙などで巻かれてもいないし、また、駐車場内にあつた分についても、紙袋などにいれられているものは一つもなかつた。なお、ヌンチヤクなどは、もちろん皆無とのことであるから、被告人らをふくむ本件集団員の所持していた物件との間に共通性がとぼしいばかりでなく、その所持の態様も、また、いちじるしく異ることが明らかである(もつとも、被告人ら以外の者の携えていた紙袋、ナツプサツクあるいはボストンバツクなどの中にどのような物がいれてあつたのかはわからないが、これを確認できるような証跡は存在しない。)(2)したがつて、もし、本件の約五〇名の集団が、検察官の言うように、さきに戸塚一丁目交差点において規制を受けた一五〇名の集団の一部(いわゆる落ちこぼれ)である、と断ずるためには、弁護人も指摘するとおり、あやうく規制を免れてからわずか三〇分くらいの間に、すばやく、紙袋、ナツプサツクあるいはボストンバツクなど多数の持物をなんらかの方法によつて収集整備すると同時に、前記駐車場以外のどこか手近な場所でこれまた相当の数に達する、新聞紙で巻き包んである鉄パイプのほか、なお、ヌンチヤクまでをも入手したうえ、これらを三個またはそれ以上の紙袋内に分納した後、五〇名もの者がふたたび隊伍を建てなおし、いちはやく警備警戒の目をくぐつてふたたび戸塚一丁目交差点に引き返すか、あるいはその裏側の道すじに潜入して、甘泉園公園内にこんどは逆の方向から都電面影橋停留所方面をめざして、進入して来たものとみるのほかはない、と思われるが、五〇名にものぼる多数の者が、短時間内にこのような迅速、かつ、周到な行動をとることは、たとえ絶対的に不可能であるとまではいえないにしても、少なくとも常識上、至難なわざといわざるを得ないばかりでなく、その間における右のような事態の推移の可能性を窺わしめるに足る別段の資料も存在しない、さらに(3)証人萩原寅次の供述(第一回)によると、同人は、当日午前七時三五分ころ反革マル派とみられる一五〇名くらいの学生集団が、都電大塚停留所から早稲田停留所方面に向かつた旨の第一報を接受したので、その指揮下の隊員一〇名をひきいて、第七機動隊の一個中隊とともに、早稲田停留所付近に移動したところ、まもなく、右集団が早稲田停留所より一つ手前の面影橋停留所で下車した、との情報が入つたので、部隊をその方面に移動させた後、その集団が、甘泉園公園の方面に向かい、やがて同公園を通過して、戸塚一丁目の方向に進行中との情報連絡が相次いであつたので、同集団は早大西門をめざしているものと判断して、午前七時五五分ころその部隊を、前記機動隊と相前後して、戸塚一丁目交差点に移動集結させた経緯を認めることができる。ところで一方、被告人小山は、大学当局のいわゆる居直り迯亡を断固として糺弾し、あくまでも、全学団交の実現をはかるため、あらかじめ連絡を受けて、当日早稲田に結集すべく、自宅から早稲田に向うため、午前八時少し前ころ都電大塚停留所に到着そこから何人かの集団で都電に乗り、面影橋停留所で下車と言つているし、また、被告人佐久間は、総長団交追求のため大学開門時間(午前八時)に大学正門前に結集、との電話連絡を前日友人から受けたので、当日朝下宿先を出て午前八時前ころ一人で国鉄高田馬場に下車し、早稲田通りを徒歩で早大に向つて行つたところ、戸塚二丁目あたり(戸塚一丁目交差点の手前ともいう。)まで来たとき、付近に機動隊などの警察官の姿がたくさん出動してなにやら騒然としていたので、身の危険を感じてその場から迯れ、安倍球場へ行く道の一つ手前の裏通りをまわつて学校へ行こうと思い都電面影橋の方面へ向かつた、と述べているから、その時刻の点に多少のズレはあるにせよ、萩原証人が、当日の朝多数の集団が都電大塚停留所から乗車して早稲田方面に向かい、面影橋停留所で下車したとの情報連絡を接受したのは、同証人の

知るかぎりにおいては、さきにしるした一回だけであることを思うと被告人らをはじめ本件約五〇名の集団は、その際面影橋停留所に下車したという前記一五〇名くらいの集団のうちにふくまれていたか、あるいは、そのころ、同停留所付近でいつたん右集団と合流したうえ、その集団のいわゆる別働隊か、あるいは後続部隊としての行動を開始したのではないか、との推量もあながち成り立ちうる余地がないとはいえないであろう。しかし、本件の集団が、その持物や着用具あるいはまた、その進行しようとする道すじ等諸般の状況からして早大の西門をめざしていることが明らかに認識された右約一五〇名の集団を本隊とするその別働隊である、というからには、やはり同様な見地からみて、少くともその外部的な状況にてらし、その行動目標のなんであるかが看過されなければならない、と思われるのであるが、この点につき、検察官は、前記のとおり、この集団が、さきに戸塚一丁目交差点で規制を受けた集団と同様、早大構内に突入して、総長団交を強行し、これを阻止しようとする革マル派学生に対しては、兇器をもつて攻撃ないし防禦のための実力行使に出ようとする意図をもつていたことは明らかである、というのである。この見解に対する当裁判所の所見は、すでに前項において、その結論を要約した形で示されているから、ここでは、その理由をじやくかん分析して述べることとする。第一に、この約五〇名の集団が戸塚一丁目交差点における集団の別働隊かまたは後続部隊であると言つてみても、なるほど、これがその朝都電面影橋停留所付近から発進したことはほぼ推認できるにせよ、それからどのような経路を経て甘泉園公園内に立ち入つて来たのかについては、さきの約一五〇名の集団の進行過程が、その都度警備の任にあたつていた警察官らに伝達されていたのとはことかわり、被告人らの当公判廷における供述以外には、客観的にこれを補足しうる資料がまつたく存在しておらず、現に、この集団に遭遇した萩原証人自身も甘泉園公園内で右集団に出会つたのは予想外のことである、と述べているくらい(第二回供述)それは完全に意表をついた出来事であつた。第二に、この集団は、前記第一次の大規模な集団のばあいとは逆に、甘泉園公務員住宅側の出入口から入つて来て、面影橋側の出入口に向かつているのであるが(ちなみに、この公園には右二箇所の出入口しかない。)、これでは、早大とはまつたく正反対の方向になるし、また、当時革マル派学生が集結していたという第一学生会館からもいよいよ遠去かることになるのであるから、そうなると、多少なりとも付近の地理状況を心得ている者にとつては、あえて右萩原証人の言を待つまでもなく、同集団がそのままただちに早大めざして進出しつつあるとはとうてい考えられなかつた筈である。もちろん、ことさらに迂路をたどつて警戒警備の眼を迯れたうえ、一挙にいずれかの学門に向かつて突進する、ということはありうるにしても、それならばそれで、あたかもさきの一五〇名くらいの集団のばあいにおける前記駐車場と同様当該集団員らが、一応、いわゆる臨戦態勢を整えるために集結するには適当な場所がなければならないわけであろうが、右駐車場はすでに警察官の捜索押収によつてその種の集結場所としては使用不能の状態になつており、また、諸般の状況からみて、同集団が甘泉公園そのものの内部のいずれかの箇所を利用して右の態勢を整えようとする意図をもつていたものともにわかに速断し難いうえに、集団の背後から追随して来た被告人らに対する追跡逮捕というような予想外の出来事が突発したことと、その際同園内における警備態勢がほとんど空白に近い状態であつたことなどがその一因であるとは思われるが、当時の状況下においてはともかく、一応、警備の対象としてしかるべきものとも考えられる右集団の突然の出現について警備本部に対してなんらの連絡通報もなされなかつたために、同集団のその後の行動や行先については、今にいたるまでこれを捕捉しうるに足るようななんらの資料も存在していない(もつとも、その後、右集団またはその一部とおぼしい者が早大の近辺に出現した事実のなかつたことはもちろん、当日、革マル派学生と反革マル派学生との間に格別の衝突事件も発生しなかつたことは、証拠上、これを窺い知ることができる。)から、そうなると、たとえ、さきにもしるしたように、被告人小山が当公判廷において、「本隊の意思はわからないが、多分そこから歩いて大学へ行く目的だつたと思う。」旨を述べていることを念頭においても、なお、被告人らをもふくめたこの集団が、少なくとも本件発生の時点において、はたして、検察官の主張するとおり、早大構内に突入して、総長団交を強行し、これを阻止しようとする革マル派学生に対しては、兇器をもつて攻撃ないし

防禦のための実力行使に出ようという意図をもつていたと断じうるかについては相当の疑問があり、現に、右の集団とともに、これから革マル派学生らを相手にそのような実力行使に立ち向かおうとしている被告人らが、防具として不可欠と思われるヘルメツトのたぐいを一つもその身辺に準備してある気配の窺われないことは、いかにもその事態にそぐわないものといわざるを得ない。検察官が本件を兇器準備集合罪として起訴しなかつた理由として、捜査の結果、共同加害の目的の証拠が充分収集できなかつたためである、と釈明しているその理拠は、それについての検察官側の所見いかんとはかかわりなく、当裁判所としては、これを右の趣旨において理解すべきものと考える。

つぎに、検察官の前記(3)の主張について検討してみる。さて、本件当時、被告人佐久間が鉄パイプ二本在中の紙袋を、被告人小山が鉄パイプ一八本とヌンチヤク二組、あるいは鉄パイプ二八本在中の紙袋それぞれ携帯していたことは、さきにも、述べたとおりであるが、右の両名がどのような経緯でそれらパイプ等在中の紙袋を持ち運ぶようになつたかの点については、各被告人自身の供述以外に、これを確認するに足る証拠はない。

ところで、被告人小山の言うところによると、「連絡を受けて当日都電の大塚駅前に行つたら、そこである人から『お前はいい格好をしているからこれを持つて行つてくれ』、と言つて、その紙袋を渡されたそのとき中に鉄パイプが入つていることは大体わかつていたし、また、つかまる前に中をあけても見た。それから何人かの集団で都電面影橋まで行つて、そこで降り、本隊の意思はわからないが、多分、そこから歩いて大学へ行こうという目的だつたのだと思う。私は集団とは離れて行つた。それは、いつしよには歩かないほうがいいと思つたのと、朝食がまだだつたので、面影橋を降りて坂を上つたところにあるパン屋に寄つてパンを買つていたりしたために本隊から大分離れてしまつたのです。」、「私と佐久間とは以前からの知合いでなく、顔を合わせたという状態になつたのは、戸塚警察署の中でがはじめてです。もう一人の人物というのもそれまで一度も会つたことのない人です。」(第五回公判期日における供述)、「私は、面影橋まで行つたところ、知つている人に会い、その人のいる集団といつしよに甘泉園に向けて歩いて行つた。面影橋から南へ行く道があり、その安兵衛通りに出る少し手前にある二軒のパン屋のうちの手前の方の店の前でその人に会い、その際紙袋を渡され、それからその集団が行つた方向に歩いていつた。その経路は、そのパン屋から南の方へ行つて安兵衛通りに出て、左折し、東の方へ向かい、河村文房具店の角をさらに左折して……水稲荷神社前に出てそこを右折して、公務員住宅側の入口に入つた。パン屋の前で会つた人というのは、面影橋で降りた集団の中の一人であるが、それは佐久間ではない。」(第七回公判期日における供述)ということになつていたが、その後、弁論再開前の第八回公判期日における最終意見陳述の段階において、「坂の途中にあるパン屋に立ち寄り、食事をすませたが、前回の公判の際このパン屋で紙袋を預けられた、と言つたのは記憶ちがいです。」、と述べ、弁論再開後の第一〇回公判期日においても、これと同趣旨の供述をしている。そして、一方、被告人佐久間の供述によると、「安倍球場の方へ向う道の一つ手前の道を左に曲つて面影橋の方へ行く途中で、私の知つている学生がいる集団―その中にはクラスの委員の人も入つていた―と出会いそのとき紙袋を渡されたが、鉄パイプの入つていることはそのとき見てすぐわかつた。袋から鉄パイプの頭が出ていた。紙袋を渡されたとき、中に入つている鉄パイプを何に使うかということは聞かなかつた。ただ、持つて行つてくれといつて渡されただけです。」、「小山とはそれ以前からの知合いではなく、全然知りませんでした。他の人とも面識はなく、そのときはじめて見た人です。公園内を歩きながら、その人たちと全然言葉はかわしておりません。」、「その紙袋を渡されてから公園内ではじめて警察官の姿を見るまでの距離がどのくらいあるかはわからないが時間でいうと歩いて一〇分くらいです。」(第五回公判期日における供述)「戸塚一丁目交差点手前から迂回して裏通りの都電通りから正門に向かおうとした。その途中、都電面影橋近くで見知つている人のいる集団に出会い、そこで紙袋を持つことをたのまれ、そのまま集団といつしよに歩きはじめ、集団が公園内に入つて行くのを見て後から入つて行つた。」(弁論再開前における最終意見陳述)というのである。

ところで、検察官は、前記のような諸点を指摘して、被告人らは、単なる兇器の運び屋としての役割りを担当していただけではなく、みずから積極的に革マル派学生らと闘争する覚悟でその用意をして集まつたものであり、本件鉄パイプなどは、いずれも、被告人らが共同してあらかじめ準備したものであることが明らかに推認される、として、被告人両名の右供述は単なる弁疏に過ぎないという。なるほど、本件当時被告人小山が、そのいずれかの肱にボール紙で作つた手製の肘あてを、また被告人佐久間が左前腕(前記鈴木証人は、「右手」と述べているが、同人作成の捜索差押調書には「左前腕」となつている。)に小手あてを、それぞれ着装していたこと、被告人小山が前述総長団交のための団交実行委員会のメンバーとして(なお、同時に社会科学部自治会常任委員会の一員でもある。)、昭和四七年一一月八日の川口事件を契機として所要の活動を続けており、一方、被告人佐久間が教育学部における右委員会のクラス委員のメンバーであること、被告人らが、甘泉園公園内で金子巡査の姿を一瞥したとたん、いつせいに反転して走り出し、三名相前後して同じ焼却場内に迯げ込んでいること(ただし、被告人らが金子巡査を発見した地点と、その際における同行者の人数とについては、後に検討する。)は、いずれも証拠上明らかであり、被告人らから押収された鉄パイプやヌンチヤクの数量が、その追随していた集団の員数と、一応、ほぼ符合しており、また、その鉄パイプの、本数、太さ、長さ、その包装の状況などに共通または類似の点が認められることも否定できないようであるし、また、被告人両名が、革マル派学生らの阻止を冒してでも総長団交の実現を期する意図をもつて当日朝それぞれの自宅を出て、早稲田方面に向かつていることは、冒頭にも掲記した従前の経緯、被告人両名の当公判廷における供述その他諸般の状況を総合すれば、これを推認するに難くはない。

しかし、被告人両名が肱あてあるいは小手あてをつけていたからといつて、迯走した他の一名も、また、そのような着装をしていたものと臆測するわけにはいかないし、逆に本件約五〇名の集団員の中に右と同様の装具を身につけていた者はなかつた、と断ずるに足るなんらの証拠もない。また、被告人らが、団交実行委員会またはそのクラス委員会のメンバーとして活発な動きをしていたとしても(ただし、被告人佐久間は、クラス委員会のメンバーとしても、さしたる運動はしていないと言つている。)、それだからといつて、それがただちに、検察官のいわゆる「活動家」の範疇に入るとは思われないうえに、迯走した他の一名がどのような人物であるかはかいもくわからず、また、同人はもちろん、被告人両名が、革マル派と対立抗争の状態にあるとみられる他のなんらかのセクトに加入していることを窺わしめるような資料も見あたらない(被告人小山が逮捕された際、軍手一双、タオル一本および機関紙((「叛旗」号外、昭和四六年一〇月二五日付のもの))=のただし、この機関紙は証拠として提出されていない=を所持しており、また、同被告人が、本件の審理中である、昭和四八年九月一六日、日本橋三越の屋上に早大の学生らとともに休憩中仲間の学生らが集団に襲われたり((ちなみに、この際被告人小山は、臨場の警察官によつて暴力事件の被疑者として逮捕されたとのことである。))、同年一一月四日国鉄日暮里駅付近で追跡して来た集団の攻撃を受けて負傷した、というような同被告人の自供によつてはじめて当公判廷に顕出された事実があつたからといつて、これらのことが、同被告人の日常における「セクト的な活動性」を示唆するものでないことは、多く言うまでもない。)。さらに、被告人らの携帯していた鉄パイプの本数、形状ないしその包装の状況等に共通または類似の点の認められること(とくに、被告人小山と他の迯走した一名とがそれぞれ手にしていたとみられるビニールで覆われた二個の手提紙袋((前同押号の3および5))は、その色、大きさ、形状はもちろん、それに表示されている模様やマークなどにいたるまで、そのすべてがまつたく同一である。)は、それらの物件の出所がバラバラではないと推定する資料の一つとはなり得ても、それだからといつて、それらの物件を携帯していた被告人ら自身がそれをあらかじめ準備したものであると論断するのは、事いささか早きに過ぎるきらいがあるし、たとえ被告人両名だけについて、その学内における前記委員会のメンバーとしての地位などをも合わせて考慮するとしても、この結論に変わるところはないし、さらに、被告人小山の「私は集団とは離れて行つた。それはいつしよには歩かないほうがいいと思つたのと、うんぬん。」という前記の供述からも窺われるように、仮に、被告人らがなんらかの事情によつて、意識的に、集団の列中に加わらなかつたものであるとしても、そのことが、ただちに、検察官の右主張を裏づけるものとは思われない。なお、また、検察官は、被告人らが所持していた鉄パイプ、ヌンチヤクの数量が、その追随していた集団の員数とほぼ符合することをもつて、被告人らが、あらかじめ集団の員数にほぼ見合う数量の右物件をあらかじめ準備した証左の一つであると主張するようにも思われる。ところが、右集団員の大半が紙袋、ナツプサツクあるいはボストンバツグを携帯しており、それらの中にどのような物件が入つていたかを確認できる資料のないことは、さきにも述べたとおりであるが、とくにその紙袋については、萩原証人が、「五〇名の集団のうち紙袋を持つている者の数は確認しないが、相当数持つていた。」、「(それらの紙袋は)やはり重そうだつたが、そのときは、集団の人数が多い、職務質問などしてトラブルをおこすと、われわれの方は小人数だからまずいと思い、職務質問をしないで見迯した。」と述べている、(一、二回供述)ところからすると、同証人が、それらの紙袋の中にあるいは相当数の鉄パイプなどが入つているのではないか、との疑念を抱いたことが窺われるから、もし、その際もし被告人らもその列の中に加わつていたとすれば、おそらくは、右と同様、職務質問も受けずに見迯されたのではないかとも思われるが、それはともかくとして、右のような事態を考慮すると、萩原証人らが目撃したそれらの紙袋の在中物件が確認されない以上は、たとえ被告人らが所持していた鉄パイプ、ヌンチヤクの数量そのものが、その追随していた集団の員数とほぼ符合するからといつて、それが、ただちに、被告人らが、あらかじめその集団の員数にほぼ見合う数量の右物件を準備した証左の一つであると論断することにはやはり疑問が残るといわざるを得ない。もつとも、本件の鉄パイプまたはそれに加えてヌンチヤク在中の紙袋を預けられたという

被告人両名の供述にも別段の裏づけがないうえに、ともかくそのような物件を手渡されるというような相当強く印象に残る筈のやりとりが行なわれた経緯ないし場所についての被告人小山の供述が、二回も変転して一貫しておらず、それについての同被告人の説明を聴いただけでは必しもたやすくその真意を捕捉し難いものがあるが、被告人らがあらかじめ本件各物件を準備した、という検察官の主張を確認するに足る資料が足りない以上は、反対事実の存在の可能性を許さないほどの確実性があるとは認められない情況証拠を量的に積みかさねても、それによつてその証明力が質的に増大するものではないのであるから、その限りにおいては、被告人両名の供述は、それがいちじるしく条理に反すると思われるばあいのほかは、むげにこれを排斥することはできないものといわなければならない。この意味において、本件の物件はこれを他の者から預けられたものであるという被告人両名の供述は単なる弁疏に過ぎないとする検察官の主張に同調することはできないが、さればといつて、右両名が本件以前にはたがいにまつたく一面識もなかつたというその供述には納得することができない。なぜならば、なるほど、被告人小山は社会科学部、被告人佐久間は教育学部と各自の所属学部は異つているとはいえ、もともと全学団交実行委員会なるものは、はじめ第一文学部、政経学部、教育学部三者の代表が発起人となつて、全学総長団交推進のための組織として右委員会の準備会を結成したことにはじまつているが、その後、被告人小山はその委員会のメンバーとなり、被告人佐久間は教育学部における同委員会のクラスメンバーに選ばれたのであつて、同委員会のメンバーとその各クラスのメンバーとは団交実現のための各種の会合や運動などを行なううえにおいて当然密接不可分の関係にあつたものと認められるばかりでなく、現に、その後本件当日にいたるまでの間において、学生自治会の運営ないし総長団交実現の手筈等につき、早大構内において回をかさねて討論集会が催されていたことは、証人野田克己、同永井友則の各供述に徴して明らかであるから、川口事件発生の前はともかく、少くともその後、右の間にあつて総長団交という重要な共同目的の実現のために努力して来たと考えてしかるべき被告人両名が、たがいにいささかも顔を合わせる機会がなかつたとは常識上とうてい思い及び得ないからである。しかし、同時に、また、このことはあくまでも被告人両名間の関係であるに止まり、迯走した他の氏名不詳者一名にはかかわり合いのないことを看過してはならない。

ところで、金子証人が甘泉園公園内において被告人らの姿を発見した直後、被告人らが反転迯走した際の状況につき、検察官は、萩原、金子、鈴木三証人の供述を総合すれば、被告人ら三名は、一団となつて、かたまつて前記五〇名くらいの学生集団のあとから右集団に追いつこうとして足早に水稲荷神社前付近から甘泉園公園内に入り、金子証人の姿を見て迯走した事実が認められる、と主張するに対し、弁護人は、その際における被告人らの位置は、萩原、金子両証人の言うように近接した地点でなく、もつと同公園の公務員住宅側出入口寄りに離れた箇所であり、しかもそのとき、被告人ら三名のほかになお一名がその前方を歩行していたものであつて、右両証人の証言は措信できない、と反駁する。おもうに、この点は、後段に述べる被告人両名の逮捕時における状況を判断するうえにかかわり合いをもつわけであるが、金子証人が被告人らを発見した際その近辺にさらにもう一名の人物がいたかどうかは、本項の争点を検討するについても関係のある事項であるから、その点についても合わせてここで考究しておかなければならない。(中略)……そこで、以上に述べたところを要約すると、少くともつぎのことは認定できるものと思われる。

(1)  被告人両名は、いずれも、他のある者(この「他のある者」が同一人であるかどうかは確定できない。)から本件鉄パイプなど在中の紙袋を本件約五〇名の集団に追随して運搬することを依頼されて手渡された(被告人佐久間の分が鉄パイプ一一本在中の紙袋であることはまちがいないが、被告人小山の分が、鉄パイプ一八本とヌンチヤク二組在中のものであるか、鉄パイプ二八本在中のものであるかは明らかでない。)。その手渡された場所は、被告人佐久間については、都電面影橋停留所付近であるが、被告人小山については、それが都電大塚停留所前であるか、それとも、都電面影橋停留所から通称安兵衛通りに通じる道すじにあるパン屋の前であるかは、その供述の推移に徴して、にわかに断定し難いが、もし、迯走した氏名不詳者一名(この者は、本件当時前記鉄パイプ一八本とヌンチヤク二組在中の分か、あるいは鉄パイプ二八本在中の分か、いずれかの紙袋を携帯していた。)と同様、その携帯していた紙袋を他のある者から手渡されたとすれば、右両名の分は、同一の機会に手渡された可能性がある。なぜならば、前述のとおり、この二個の紙袋は、その大きさ、形状、色合い、およびそれにしるされているマークなどがまつたく同一であるからである。

(2)  被告人両名は、その手渡されたそれぞれの紙袋の中に何が入つているかはすぐに知り得た。ただし、そのような物を渡された理由について、被告人佐久間は、「袋を渡されたとき鉄パイプを何に使うかということはきかなかつた。」、と言つており、被告人小山も、「『おまえいい格好しているからこれ持つて行つてくれ。』、と言われただけである。」、と述べているだけである。しかし、被告人両名が、当日朝自宅を出るときには、革マル派学生らの妨害を冒してでも総長団交を強行しようという意図を持つていたことは、いずれも肘あて、あるいは小手あてなどを着装していたことからしても明らかであるし、それにまた、川口事件以来本件当日にいたるまでの諸経緯等をも合わせて考えるとこのような状況の下において、被告人両名が、相当多数の鉄パイプなどをまつたく無関心で受け取るとは思われず、それを渡された趣旨については、少なくとも各自それぞれこれを推知していたものとみるが相当であり、この点は他の氏名不詳者一名についても同様であると考えられる。もつともそうだからといつて、一概に、検察官の主張するように、被告人が、早大構内に突入して、総長団交を強行し、これを阻止しようとする革マル派学生に対しては、それらの兇器をもつて攻撃ないし防禦のための実力行使に出ようという意図をもつてこれを携行していたものと速断し難いことは、さきにも述べたとおりである。

(3)  本件当日午前七時五五分ころ約一五〇名の学生集団が、早大西門から構内に突入しようという意図のもとに戸塚一丁目交差点に突進して来たが、機動隊と衝突し、多数の旗竿竹竿等を遺棄して馬場下方面に規制されたが、その際、付近の駐車場内にも多数の鉄パイプが遺留されていた。

(4)  その後同日午後八時二〇分ころ、被告人両名および氏名不詳者一名は、各自それぞれ前記紙袋を携帯して、約五〇名の学生集団(この集団が右の戸塚一丁目交差点で規制された約一五〇名の集団の落ちこぼれ、またはその別働隊であると断定し難いこと、また、この集団が終局的にどこへ行こうとしていたのかは、これを確認するに足る資料もないが、少なくとも早大構内に突入すべく同校をめざして進行していたものと認められないことは、いずれもさきに述べたとおりである。)に追随し、前記面影橋停留所から水稲荷神社前を経て甘泉園公園公務員住宅側出入口に通じる道までを通つて右出入口から同公園内に進入し、面影橋側出入口に向かつて小走りに歩行中、たまたま金子巡査とまじかな地点で遭遇した。このとき、被告人小山が先頭つぎが氏名不詳の者、最後が被告人佐久間という順序であり、この三名の相互の間隔はおおむね一メートル内外であつた。

(5)  その間、右三名と前記約五〇名の集団とは相当離れていたが、なぜそのような間隔ができたのか、その事情は必ずしも明らかでない。しかし、被告人小山は、「自分は本隊から少し離れて行つた。それはいつしよに歩かない方がいいと思つたのと、うんぬん。」と言つており、また、被告人佐久間が「面影橋の方へ行く途中、自分の知つている学生がいる集団に出会い、そのとき紙袋を渡された。その集団の中には自分の知つているクラス委員も入つていた。」と述べているのに、直接その集団の中に加わらず、これと相当の距離をおいて追随して行つたことなどから考えると、三名とも単に偶然な事情でおくれたというよりも、なんらかの理由によつて、集団といつしよに歩かない方がいいという配慮の下に、意識的に間隔をひろげて追随して行つたものと解せられる。そして、少なくとも、前記水稲荷神社前の道すじに出てから後は、三名相前後して歩行し、とくに甘泉園公園内に入つてからは、いわば一団となつて、前記集団に追いつくため小走りに進行していたことが推認される。そして、おそくとも三名が相前後して歩行するようになつた時点においては、それぞれの所持する紙袋の中にいずれも相当数の鉄パイプの入つていることはたがいに充分知り得ており(ただし、その紙袋のうちの一個の中にヌンチヤクが入つていることまでを他の者らが認識していたかどうかは疑問である。)、しかも三者間における面識の有無などとはかかわり合いもなく(ただし、少なくとも被告人両名の間には従前から面識があつたと推認されることは、さきにもしるしたとおりである。)各自がなんのためにそのような兇器在中の紙袋だけを携行しているのかというその目的や役割などについてもたがいに了解し合い、かつ、相互に相協力して前記集団に追随し、これを運搬するというその役割を果そうとする気持が少なくとも暗黙のうちに相通じていたものと認めるのが相当であり、また、さればこそ、その後はからずも金子巡査に遭遇するや、期せずしていつせいに反転迯走し、しかも相次いで同じ焼却場に迯げ込んでいるものと思われるのであつて、弁護人の主張するように、これを単なる心理的な行為に過ぎないということはできない(なお、弁護人は、被告人らはいずれもバラバラに離れて歩いていたのであるから、少なくとも被告人佐久間およびその前方を行くもう一人の者は、数メートル後方から歩いて来た被告人小山には当時まつたく気づいていなかつたというが、前後の状況にてらして、そのようなことは不自然であり、現に、被告人佐久間は、弁論再開前の意見陳述の中で前記のとおり、「私の前方四~五メートルくらいのところに一人、一~二メートルくらいに一人それから後方に一人いたと記憶している。」と述べているのである。)

そこで、右認定したところをさきに本項の冒頭に判示した共同正犯の要件に関する見解にてらして考えてみると、被告人両名は、本件の事犯について、氏名不詳者一名とともに暗黙の意思通謀による共同正犯としての責任を負担すべきことが明らかである、といわなければならない。

(法令の適用)

軽犯罪法一条二号(拘留刑選択)刑法六〇条、二一条

刑事訴訟法一八一条一項本文、一八二条

(弁護人の主張に対する判断)

第一  弁護人はまず、被告人両名は、兇器準備集合罪の現行犯人として逮捕されたものであるが、本件については、実体法的に兇器準備集合罪は成立していないばかりでなく、客観的にも集団の性格、当日の目的、各被告人の行為、各被告人と集団との距離、当日の早大周辺の状況等からしてもとうてい被告人らにつき、兇器準備集合罪の現行犯と認め、あるいは認め得るような状況は存在しなかつたものであるから被告人両名を兇器準備集合罪の現行犯人として逮捕したことは違法、無効である、と主張する。

本件について、兇器準備集合罪の成立を認めるに足る証拠の不充分なことは、検察官もこれを承認しており、当裁判所としてももとよりこれに異存はない。ただ、検察官がその理由とするところは、本件について捜査をとげた結果、当日被告人らは機動隊に対して闘争を企てていたわけではなく、早大構内の革マル派学生との闘争のため、共同加害目的を有していたものと認められるがこの闘争対象となつた早大構内の革マル派学生の動向についての証拠が共同加害目的を確たるものにするために必要なほどには充分収集できなかつたからである、というのであるが、しかし、それにもかかわらず、検察官は、一方、本件につき、被告人らが革マル派学生らに対する攻撃ないし防禦という共同目的をもつて意思相通じその共同行為をとる準備として鉄パイプ等を紙袋の中に隠して携帯していたものであることは疑いをいれる余地がない、と主張しているのは、必ずしもたやすく理解できない。なぜならばこの検察官の主張をふえんすると、結局、被告人らは、その追随していた約五〇名の集団とともに、早大構内に突入して、総長団交を強行し、これを阻止する革マル派学生に対しては、兇器をもつて攻撃ないし防禦のための実力行使に出ようという共同の目的をもつて、意思相通じ、その共同行為をとる準備として、本件鉄パイプ等を紙袋の中に隠して携帯していたもの、ということになるから、被告人らを単なる兇器の運び屋以上の者と見ている検察官の建前からいえば、たとえ、当時、被告人らの闘争対象となつた早大構内における革マル派学生の動向についての証拠が充分収集できなかつたとしても、それが、別段、実体法上被告人らについて兇器準備集合罪の成立することを妨げる理由にはならないと思われるからである。これに対し、当裁判所は、さきにもくわしく述べたような理由によつて、なるほど、被告人らが本件鉄パイプ等を紙袋の中に入れて隠し持つていた事実はこれを認めるのであるが、それでも、なお、被告人らをふくめた前記約五〇名の集団が、少なくとも本件発生の時点において、はたして、検察官の主張するとおり、早大構内に突入して、総長団交を強行し、これを阻止する革マル派学生に対しては、兇器をもつて攻撃ないし防禦のための実力行使に出ようという共同の目的をもつていたと断じ得るかについては相当の疑いを入れうる余地があるから、この意味において、結局、共同加害目的の証拠が充分でない、と考えるのである。したがつて、金子および鈴木両巡査が被告人両名を兇器準備集合罪の現行犯人として逮捕したのは、その判断を誤つたことになる。もつとも、現行犯として逮捕されたその罪が、その後の捜査または審理の結果成立しないことになつても、それだけでただちにその逮捕行為が違法、無効になるわけではなく、逮捕行為が適法かどうかを決する判断基準は、逮捕行為当時における具体的状況を客観的に観察して、現行犯人として認められる充分な理由が存在したかどうかによるべきであつて、事後において、被逮捕者がその罪について犯人と認められたか否かによるべきものではない。そこで、つぎに、金子、鈴木両巡査が、本件において、被告人両名を兇器準備集合罪の現行犯人と認めて逮捕した理由を検討する。まず、被告人小山を逮捕した金子巡査が同被告人を兇器準備集合罪の現行犯人と認めた理由として、第一に、被告人小山が兇器として使用される鉄パイプを所持していたこと、第二に、その三〇分くらい前戸塚一丁目交差点で規制された約一五〇名の学生集団が「革マル粉砕」と叫んでいたが、被告人小山はその集団の一人であり、また、駐車場に鉄パイプを遺留した学生集団の一人であると考えたこと、第三、当日朝警戒警備に就く前萩原課長から、その日反革マル派が革マル派に攻撃をかける動きがある、という趣旨の情報が入つていることを聞かされたこと、などの諸点を挙げているが、なお、同巡査は、当日甘泉園公園内で行き会つた約五〇名の学生集団は、戸塚一丁目交差点で規制された右一五〇名くらいの学生集団の一部があるいはその日規制されなかつた別の学生集団と思つたとのことである。ところで、弁護人は、これに対し、(イ)金子巡査は、被告人小山が焼却場内に置いた紙袋の中にある鉄パイプを確認もしないうちに同被告人を逮捕し、その後にはじめてその在中物件を発見しているのであるから同人の証言はまつたく信用できない。(ロ)五~六〇名もの集団が当日の早大周辺における警備網をくぐり、赤いヘルメツトを着用した集団が戸塚一丁目交差点で規制されてから僅か二~三〇分後に甘泉園公園を歩いている事は時間的にいつてとうてい不可能であり、また、被告人らの集団の服装、態度、所持品等からすれば、被告人らがいわゆる赤ヘル集団はもちろん、なんらのセクトにも属していないことは外見上明白であるから、仮に金子

巡査がそのような認識をもつていたとすれば、それはなんらの根拠もない予断に基づくものである。(ハ)金子巡査と同じく萩原寅次警ら課長の部下であり、当日金子巡査と終始行動をともにしていた鈴木巡査が、当日なんらの情報も与えられず、また、勤務目的も確たるものは明らかにされていないまま隊を編成して出動した旨を供述していることに対比すると、金子巡査の証言はまつたく信用し得ない、と反駁する。そこで、つぎに順次検討を加える。

(イ)  被告人小山が、本件当時、鉄パイプ一八本、ヌンチヤク二組在中の紙袋かあるいは鉄パイプ二八本在中の紙袋かのいずれかを携帯しており、甘泉園公園内において金子巡査と遭遇するや、反転迯走して前記焼却場内に迯げ込み、すでに先行者(迯走した氏名不詳者)がその所持していた紙袋をいれておいた焼却炉とRA棟の建物の壁との間の隙間に自分が手にしていた紙袋を同様にさし入れたこと、およびその後まもなく右焼却場外で金子巡査に逮捕されたことは、証拠上明らかである。そこで、まず、この逮捕時の前後にわたる状況について、金子巡査およびその際右焼却場付近に来合わせ鈴木巡査が、それぞれ証言または指示説明しているところを摘記するとともに被告人両名のそれをも合わせてつぎに記載する。

(一) 金子証人の供述および指示説明(略)

そこで、金子、鈴木両証人の前記供述に対する弁護人の反論をつぎに列挙し、そのそれぞれについての当裁判所の意見を表示する。

(I) まず、弁護人は、金子巡査が頭初被告人らを追跡したのは、そもそも職務質問などをするためではなく、まさに逮捕するためであつた、というが、これはその後における同巡査の行動をどのように認識するかという問題のうちに解消されるべき性質のものであると考える。第六回公判期日における同巡査の焼却場前でスピードを揚げたのは「それ以上遠くへ迯げられると捕えられなくなるし、うんぬん。」との供述も、それが職務質問を行なうために迯走者を捕捉する趣旨とも解しうる余地はあるのであるから、このような片言雙句をとらえて一義的に断定しうるものではない。

(II) つぎに、弁護人は、金子巡査が焼却場内に入つた時点において同所にいたという被告人らの数についての供述が変転していることを攻撃するが、たしかにこの点についての同巡査の証言は、弁護人の言うとおり首尾必ずしも一貫していないが、供述の変移は、現に被告人にもままあることは上来摘記したところによつてもこれを看取できるばかりでなく右焼却場内においてある時間帯金子巡査と被告人ら三人がいたことは、鈴木巡査が終始一貫して述べているのであるから、これを認めることはけつして不合理ではない。

(III) 弁護人は、金子巡査は第三回公判期日で自分が焼却場に入つたとき被告人小山が紙袋に手をかけているのを見たと証言しているが、検証の結果によつても明らかなように、同巡査の指示する地点からは同被告人の手もとは死角になつて見えないし、また、金子巡査が三〇センチもの近くに接近したというのに、なおも被告人小山が紙袋に手をかけてそれを隠そうとする行為を続けていた(第三回公判)というのも不自然であり、さらに職務質問の前にしたという袋の中身の確認のしかたも、「上から見てわかつた」「袋の口を両手でひらいてみてわかつた、」というほかにさらに鈴木巡査の検証の際における指示説明によると「紙袋を外からさわつて」確認したなどまつたくさまざまであるばかりでなく、その後に「何を持つているんだ」(第三回公判)「これは何だ」(検証におけを指示説明)などと職務質問をしたと言い、これに対して被告人小山が「知らない」などと答えることはとうていあり得ないという。しかし、金子巡査が、第三回公判期日において、被告人小山が紙袋に手をかけていた、と言つているのは、その袋の方に手をのばしていたと、いうことを表現しようとする趣旨であつたことは、検証の際における同巡査の指示説明によつても充分これを窺い知ることができるし、また、それは、同巡査が身体に接近していたのに、なお、被告人小山が隠す行為を続けていたという趣旨ではなく、被告人小山が自分の置いた紙袋からまだ手を引かないうちに焼却場に入つてきた金子巡査がそれを目撃したという意味であることは、その供述自体によつておのずから明らかであり、さらに、金子巡査が、はじめ袋の上から見て中に鉄パイプの入つていることがわかつたが、なお、石や爆弾などもないかと思つて念のためその中身を確認する意味で一応その袋の口をあけて見たからといつて、そのこと自体別に不自然ではなく、袋の口をあけるためには一度紙袋を外に出す必要もないことは、検証調書添付写真19によつても、充分諒解できるし、また、鈴木巡査が、金子巡査がその袋を外からさわつて『これは何だ』というようなことを言つた」というのは、金子巡査が手で袋の口をあけているところを見たことを言つているものとも解されるのであるから(現に鈴木巡査は、第三回公判期日で、金子巡査が紙袋の中を見ていた、と述べている。)、別段、金子巡査のいうところと矛盾するわけでもない。また、金子巡査が、その焼却場内で被告人小山に対し、「何をしているんだ」、「何を持つているんだ」、「それは鉄パイプだろう」、「これは何だ」、などという趣旨のことを言つたとしても、これらの言葉だけをただ羅列すると、いかにも唐突な感じもするがそれらの発言のなされたそれぞれの段階との関係を考慮にいれれば別段不自然でもないし、被告人小山が金子巡査の問いかけに対して「知らない」と答えることも、その際のふんい気からすればあり得ないわけではないであろう。また、鈴木巡査が、検証の際、「金子巡査が学生三人と何かガタガタやつているようだつた。」、と説明しているところからすると、その焼却場内で何かのやりとりかあるいは動きがあつたことも窺われるのである。もつとも金子巡査が、第三回公判期日で、「小山が自分の方に背を向けていた」と述べているのは、検証の結果に徴して明らかに思いちがいか、または言いちがいであり、また職務質問の時間を尋ねられて、「二~三分でしよう。」、などと答えているが、その際における状況から考えても、それほどの長く職務質問が続けられていたとは思われず、また、その間におけるやりとりの内容を忘れるというのも不自然であり、これは、同巡査の時間的感覚の不正確さを示すものといわざるを得ない。しかし、金子巡査自身も言うように、このばあい、もし、紙袋の中に鉄パイプが入つていることがわかつたとすれば、他の要件が備わつていると認められるかぎりにおいては、被告人らを逮捕するために必ずしもそれ以上さらに職務質問を行なう必要もないわけであるから、それにもかかわらず、金子巡査があくまでも職務質問をしたもののように作為するというのも不自然の感を免れ難い。

(IV) つぎに、弁護人は、鈴木巡査の姿を発見したという時期がおそ過ぎて不合理であるという。しかし、同巡査も言うところによると、金子巡査の「待て」という声を耳にしてふり返つたとき、被告人ら三名が同巡査の方に向かつて全力疾走の形で駈けてくるのが見えたが、そのときその三人は一団となつていたわけではなく、バラバラになつて駈けて来たというのであるから三人はじやくかんの間隔をおいて、ちよつと道の曲り角の植込みの端をまわり込もうとしていたのではないかと察せられる。したがつて、その時点においては、まだ、その後を追つてくる金子巡査の姿が見えないのは当然であるが、それからすぐ普通の駈足で後戻りした鈴木巡査が検証調書添付図面のあるいはの地点に来たころ、まさに公務員住宅の敷地に入ろうとして同じく全力疾走している金子巡査の姿を点あたりに発見したとしても、同巡査が反転した地点と右あるいはの地点との距離が明らかでなく、また、金子巡査と被告人らとの距離が二~三メートルくらいであつたというのも、鈴木巡査が瞬間的に見た感じを言つているに過ぎないことを念頭において考えれば格別不思議とも思われないのである。また、弁護人は、鈴木巡査が、検証調書添付見取図④点あたりまで来たとき、死角になつている筈のRA棟焼却場との間に紙袋が置いてあるのが見えたと言つているのは理解し難いというが、なるほど、同調書添付見取図(その二)によると④点からは、焼却炉の突出部に妨げられて、その蔭になつている紙袋が見えないように思われるが、それは、その焼却炉の図面が平面であるからであつて、同調書添付の写真19および昭和四八年五月二八日付実況見分調書添付の写真No.15によれば、右平面図に突出部のように記載されているのは立体的な焼却炉の外廊であることが明らかであるから、これを考慮して前記④点との位置関係を勘案すると、少なくとも手前の紙袋の置いてあるところまで死角となつてまつたく焼却炉の片側にかくれてしまうような状況でないことが理解できると思われるのである。

(V) 弁護人は、また、鈴木巡査が焼却場内から飛び出して来た学生の腕をいつたんつかんだと言つていながら、その学生が何も持つていないので、つかんだ手を離すということは考えられないし、また、同巡査が焼却場の手前二メートルくらいに近づいたとき、被告人佐久間が焼却場から飛び出して来て迯走した、ということになつているが、同被告人が迯走の途中で鈴木巡査の存在にはまつたく気づいていないのであるから、これは不合理である。たしかに、鈴木巡査がいつたん腕をつかんだ相手の人物を同巡査の言うような理由で自発的に解放したのか、あるいはその人物に腕をふり払われて迯げられたのかは必ずしも明らかでないが、同巡査の第三回公判期日における証言によると、同巡査が金子巡査から「鉄パイプだ。」とか「もう一人向うへ迯げた。すぐ行け。」などと言われたのは、右人物の腕を放してから一〇秒くらいあとのことである、ということになつているし、それに、もし、その人物が鈴木巡査につかまれていた腕をふり払つて迯走したとすれば、同巡査は当然ただちにその跡を追う筈であると思われるのに、そのような気配も窺われない(もつとも、被告人小山の第五回公判期日における供述によると、鈴木巡査がその迯げた相手を追いかけて行つたようなことになつているが、被告人佐久間は、検証の際、その人物が鈴木巡査のそばから走り出したあと、同巡査が自分のいる踊り場の方へ来た、と言つている。)ところからすると、その措置の当否は別として、やはりその際鈴木巡査は自発的につかんでいた相手の腕を離したとみるのが相当であろう。また、金子巡査も、その人物は、鈴木巡査が焼却場に近づいて来たころに被告人佐久間に続いて焼却場から迯げ出した、と述べているから、その出来事は鈴木巡査の言う地点の付近で起こつたものと思われる。なお、被告人両名は、いずれも、金子巡査に追跡されているということには全然気がつかなかつた、というのであるから、それならば、被告人小山が全力疾走で焼却場などに迯げ込んで来たうえ、さらに携えていた紙袋をわざわざ焼却炉の横の隙間に隠すのが不自然に思われると同様、被告人佐久間も、焼却場を飛び出した直後にもなお警察官の存在に気づいていなかつたとすれば、そのまま迯走を続ければよさそうに思われるのに、そうもしないで、RB棟の踊り場などに身を隠し、そのうえ迯走して来た方の様子を窺うというのも、いささか理解し難いことである、といわざるを得ない。

(VI) そのほか、弁護人は、鈴木巡査が甘泉園公園から出ようとしたとき現認したという約四〇名くらいの学生集団の直後に続いた五~六人の学生たちと同巡査とがすれ違つた位置について、第三回公判期日における証言と検証の際における指示説明とが一致しないことや、同巡査が検証の際に指示説明したRB棟東側道路上における再度のUターンについて、その確たる理由を示していないのは不可解である、というが、前者については、検証の際における現場に即しての指示説明の方が事実に近いと思われるし、また、後者については、甘泉園公園内に萩原課長が残つているかどうかを確かめるためにいつたん戻りかけたが、途中で気が変り、同僚の警察官らのいる駐車場の方にふたたび歩を返した、という同巡査の行動にさほどの疑念をさしはさむべきものもないように考えられる。

以上の次第で、金子巡査が事前にあらかじめ紙袋在中の鉄パイプやヌンチヤクを確認もしないで、いきなり被告人小山を見込逮捕した、という弁護人の主張には賛同することができない。

(ロ)  つぎに、被告人らをふくむ本件約五〇名の集団についての金子巡査の認識が何回かの審理をかさねた結果から考えると、必ずしもそれが妥当であると思われないことは、さきにも述べたとおりであるが、甘泉園公園と戸塚一丁目交差点、あるいはまた、多数の鉄パイプが遺留されていたという駐車場との地理的な位置関係、両集団の出現した時間的前後の連鎖関係などが念頭にあつた現場の警察官としての金子巡査が、その上司である萩原寅次やまた同僚である鈴木雄司と同様、被告人らをはじめ右集団が戸塚一丁目交差点で規制された集団の落ちこぼれか、あるいは、それとなんらかの脈絡のある別働隊であり、さきの集団と同様の意図をもつて行進していたものと判断し、しかも、たまたま同巡査と遭遇した被告人らが、いずれも一見重そうに見える紙袋を手にしたまま一斉反転して迯走したことが一層同巡査の右判断を強めたからといつて、必ずしも、それが社会常識を無視した独断であるということはできない。弁護人は、当日の早大周辺の警備網をくぐり、五〇ないし六〇名もの集団がわずか二~三〇分後に甘泉公園を歩いていることは時間的にとうてい不可能であると言い、その点は、一応、そのとおりであると思われるが、同時に、またそのように厳重な筈の警備網がしかれていたにもかかわらず、現にその五~六〇名の集団がその警備網にもかからず、突如として戸塚一丁目交差点に間近い甘泉園内にその姿を現わしたという事実も、まつたくこれを無視することはできないばかりでなく、もともと本件のような状況の下において、被告人らをふくむこれだけの人数の集団が無意味に行進している筈のないことはいうまでもなく、たとえ、その当面における進行方向はともかくとして、その窮局における意図は、必ずしもにわかにこれを予測し難いものであることも、たやすく考慮の外に逸するわけにはいかない。

(ハ)  当日反革マル派学生らが革マル派学生らに攻撃を加えるおそれがあるという情報が入つていたことは、金子巡査の上司である萩原警ら課長もこれを確認していたのであるから、同人の部下である金子巡査が警戒警備に就く前、右萩原からその情報を伝えられた、ということは、充分ありうることと思われるのであつて、たまたま、同日金子巡査とその行動を共にしていた鈴木巡査が、その情報を聞きもらしていたからといつて、その点についての金子巡査の証言がまつたく信用し得ないものである、ということはできない。

したがつて、このように当時における具体的情況を客観的に観察すると、金子巡査が被告人小山に対して行なつた本件逮捕には充分な理由があると認められるから、これを違法、無効であるとすることはできない。なお、鈴木巡査が被告人佐久間に対して行なつた本件逮捕についても同巡査がその逮捕の事由として証言したところを総合すると、ほぼ右と同趣旨のことが言えるものと思われる。もつとも、弁護人は、鈴木巡査は、被告人佐久間を追つて、同被告人のいるRB棟一階段踊り場まで行き、紙袋の中身が鉄パイプであることを確認した後、再度階段を降りて、迯走した同被告人を追跡したことになつているから、もしそうだとすると、被告人佐久間と追跡する鈴木巡査との距離は、時間的に考えて、相当開いたものと推定しなければならないが、この点は事実に反する、と指摘し、このばあいも、やはり、見込逮捕の公算が大きい、と主張する。しかし、被告人佐久間の検証の際における指示説明によると、同被告人は、鈴木巡査が自分のいる踊り場に通じる階段の方に近づいてくるのが見えたので、紙袋を置き放しにして、踊り場の北側の手すりを飛び越して下に降りた、というのであるから、そうなると、同被告人は、近づいてくる鈴木巡査の進路直前のあたりにわざわざ飛び降りたことになつて、いちじるしく不自然であるといわざるを得ないのであつて、このばあいに被告人佐久間が西側の手すり(ちなみに、西側の手すりの下方にも別段障害となるような物件が存在していなかつたことは、昭和四八年五月六日付実況見分調書添付写真No.21によつても明らかである。)からではなく、西側の手すりから飛び降りたのは、やはり、鈴木巡査がはじめの階段を上つて踊り場に接近して来たことに気づいて迯げようとしたからである、と解せられるのであり、そうすると鈴木巡査がそのすぐ近くに放置されてある紙袋の在中物件を確認するということがきわめて自然な成行きになるばかりでなく、なお、同巡査の検証の際における指示説明によると、被告人佐久間がその北側の手すりから飛び降りた直後いつたん地上に転んだ気配のあることが窺われるから、そうなると、その後の追跡における両名の間隔がそれほどひらくことにはならないわけである。

第二  弁護人は、本件は、検察官が違法逮捕の事実を熟知しながらそれを隠ぺいし、さらに違法逮捕に抗議した被告人らを屈服させ被告人らに係る運動自体を壊滅させる目的で起訴したものであるから、本件起訴は、軽犯罪法四条に違反する不適法な起訴であるから、公訴棄却の裁判をなすべきである、と主張する。しかし、本件における被告人両名の逮捕が違法といえないことは、さきに述べたとおりであるが、仮に弁護人主張のようにこれを違法とする見解をとるとしても、本件においては、その後、昭和四八年五月一九日被告人両名に対し兇器準備集合被疑事件として勾留状が発付されているのである。このように、勾留に関する処分を担当する裁判官がいつたん適式な手続を経て勾留請求が適法であり、勾留要件があると判断して勾留状を発付した以上、その裁判は、適式な準抗告の手続により取り消されない限り、裁判としての効力が保障され、その後の訴訟手続を規制することはいうまでもない。そして、前記各勾留状は、裁判官が、適式な手続を経て、勾留請求が適法であり勾留の要件が具備されていると判断したものと認めるべきであり、かつ、これを無効とするような特殊な事情が存在したことはなんら認められない。もつとも本件については、その後同年六月七日軽犯罪法違反として起訴がなされると同時に、被告人両名に対し、あらためて同法違反被告事件としての勾留状が発付され、ついで同年六月九日被告人両名に対する勾留取消の決定がなされているが、これは、いずれも、被告人両名の氏名、住居等が判明したため、軽犯罪法違反被告事件として勾留を継続することができなくなつたためであることはいうまでもない。したがつて、検察官としては、前記勾留状の発付された被疑事件につき充分な捜査を行なつたうえ、もし、なんらかの理由によりその被疑事実について公訴提起することができないと認めたばあいには、これを不起訴処分に付するか、あるいは将来公訴を維持し得る見込みのある他の事実について起訴するかの裁量権を与えられているものというべく、このばあい、その「他の事実」がたとえば軽犯罪法違反のように比較的軽微な事犯に止まるときにおいても、諸般の情状を考慮のうえ、公訴を提起することは、もとより許されているものといわなければならない。本件が、終局において、兇器準備集合罪に該当しないとする理由について、必ずしも釈然たらざるものがあるからといつて、それは畢竟見解の相違に過ぎないから、これをとらえて、ただちに本件起訴が軽犯罪法制定の本来の目的を逸脱して、被告人らの担う特定の運動自体を壊滅させるなど他の目的のために濫用されたものと即断することはできない。弁護人指摘の軽犯罪法四条は、周知のとおり、戦前、警察犯処罰令中の二~三の規定が違警罪即決例による手続と相まつて、大衆運動等の弾圧のために乱用された経緯にかんがみ、国会審議の段階において修正追加された条文であり、そして本条は、本法所定の罪の多くが、平素多数の通常人によつてもさしたる悪意なしに犯されやすい種類のものであることにかんがみ、取締当局および裁判所に対して、とくにその取締りが苛酷ないし偏頗に陥つたり、処罰が実質的に苛酷に過ぎることがないよう留意すべし、と規定した趣旨のものと解せられ、その精神はあくまでもこれを尊重しなければならないが、本件事案に関するすべての情状をもれなく充分勘案してみても、検察官が、被告人両名に対し、本件を軽犯罪法違反の罪として起訴したことが、右法条の趣旨に違反するものとは思われない。

(量刑の事情)

本件は、被告人両名および氏名不詳者一名の計三名が、それぞれ一個づつの紙袋に鉄パイプ一一本ないし二八本、計五七本在中しているものを隠し持つて、その前日まで早大総長の全学団交決行の当日と予定されていた日の朝、早大近辺にある甘泉園公園内を約五〇名の集団に追随して歩いていた、というのであるから、被告人らの意図するところの目的のいかんとはかかわりなく、それ自体として、当時の緊迫した状況の下において、周辺の住民はもちろん一般世人に対して、相当深刻な不安の念を抱かしめる性質の事案であるばかりでなく、事態の成行きのいかんによつては、思わざる不祥事を引き起す恐れがないともいえないから、被告人両名の責任は、軽犯罪法違反の罪としても、けつして軽いとは思われない。しかし本件において注目すべきことが二つあるように思われる。その一つは川口事件を契機とした早大学内における学生運動の新機運とこれに対処する大学当局および既成セクトの対決的な姿勢であり、本件は、まさに、このような動揺と緊張とに触発された一部反革マル派のノンセクト学生らが、その所期する総長団交の実現をあくまでも強行すべく一致結束してけつ起しようとしたところに発生したものであるから、結局、その間、あくまでも総長団交を阻止しようとしている革マル派学生との衝突の可能性も予想されていたとはいえ、単なる既成セクト間のいわゆる内ゲバに付随する事件とはいささかその趣を異にするものがあつたことであり、その二つは事犯発覚の態様に偶然的な要素がかなり多くふくまれていることと、したがつて、また、事案そのものの内容がいまだ必ずしも充分明らかにされていないことである。そのうち前者については、本件の背景とみられる事情として、冒頭に述べたところによつてある程度触れられていると思われるから、ここでは、後者について、量刑との関連を考慮しながら、じやくかん摘記することとする。すでに述べたとおり、被告人両名は氏名不詳者一名とともに、それよりさき戸塚一丁目交差点付近において赤あるいは白のヘルメツトをかぶり、手拭等で覆面し、鉄パイプを中にいれた旗竿または竹竿を手にした者の多くまじつている約一五〇名の学生集団が、「革マル粉砕」「革マルせん滅」などのシユプレヒコールを口にしながら、早大西門方面に向かう途中、おりから警備中の機動隊と接触して馬場下交差点方面に規制されてから約二~三〇分後の午前八時二〇分過ぎころ、右戸塚一丁目交差点にほど近い甘泉園公園内を行進中の五〇名くらいの学生集団の後方から追随し、本件鉄パイプ等在中の紙袋を携えて歩行していた際、たまたま右集団とすれちがつて前方から歩いて来た金子巡査と遊歩道の曲り角付近で遭遇した。当時、右金子巡査は、別段同公園内に学生集団などが進入してくるのを予想し、その規制にあたるために来ていたのではなく、前記戸塚一丁目交差点付近の駐車場内に多数の鉄パイプが遺留されていたことにかんがみ、同園内にも同様鉄パイプなどが遺留されているかどうかを検索する目的で、上司の萩原警ら課長の指揮の下に同僚の巡査三名とともに同園内に来合わせていたところ、まつたく予想もしていなかつた右集団に遭遇するとともに、続いて、また、手に手に紙袋を重そうにさげ、先行集団に追いつこうとして小走りに来た被告人らと出会つたのである。ところでその集団の中にはボストンバツグあるいはナツプサツクなどのほか紙袋を持つている者も相当あり、とくに、その紙袋は、やはり相当重そうに見えたので、これを目撃した前記萩原課長は、その袋の中に相当数の鉄パイプ類が入つているのではないかと思つたが、当時園内には右金子ほか三名の鉄パイプ検索中の警察官が散在しているだけで、警備態勢も整つていなかつたため、同集団員との間にトラブルの生ずるのを憂慮してのあまり、あえてそれを不問に付していたばかりでなく、おりからその集団とすれちがいながらこちらに歩いてくる金子巡査が、それに対して何か咎めだてをするようなことがありはしないかと、懸念していた模様であるが、金子巡査もその点に対しては、別段の反応も示さなかつたようである。したがつて、もしこのばあい、被告人らが、前にも述べたとおりもう少し早くその集団に追いついていたか、あるいは素知らぬふりをして金子巡査のそばを駈け抜けて先行集団の後尾に接着して行つたとすれば、おそらくそのまま見迯されていたのではないかとも思われるのである。ところが、被告人らは、金子巡査と視線が合うや、とたんに反転していつせいに元来た方へ駈け戻つて行つたので、それを見るや、その重そうな袋の中には鉄パイプなど危険な物が入つているのではないかと思つていた金子巡査は、傍らにいる萩原課長の指示も受けないまま、ただちに追跡をはじめたが、同課長は、まだ集団の進行方向にいると思われる他の

部下警察官らのことを案じて、金子巡査の跡を追おうとはしなかつた。このようなわけで、その後その集団の行先はわからなくなつてしまつたし、戸塚一丁目交差点で機動隊と接触したセクト集団らしいものも規制はされたが、別段逮捕されたものがあつたわけでもないようであり、それにまた、前記駐車場に多数の鉄パイプを搬入した者も不明のまま放置されているばかりでなく、また、本件事犯そのものについても、被告人両名以外の共犯者一名は迯走しており、その他、当日、早大周辺で格別の騒ぎが起こつた証跡も見あたらず、結局、その日いわゆる総長団交の件にまつわる事案に関連して逮捕された者は、少なくとも当法廷に顕出された証拠によつて判断するかぎりにおいては、前記集団の跡を追つて来たところをたまたま金子巡査に発見された被告人両名だけであるように見うけられる。もとより、金子巡査が、鉄パイプその他の危険物がいれてあるらしい紙袋を持つたまま同巡査の面前から急きよ反転して迯走しようとした被告人らの挙動に不審の念を抱き、傍らに居合わせた上司萩原課長の指示命令を待つまでもなく、ただちに追跡を開始したのは警察官としての職責上当然のことであるし、また、その後、同巡査と鈴木巡査とが兇器準備集合罪の現行犯人として被告人両名を逮捕した行為をいちがいに違法視できないことは、さきにも述べたとおりであるが、それはそれにしても、前記のような経緯一般を念頭に置くとともに、他方、被告人らをふくむ前記約五〇名の集団が、当時なお、検察官の言うような過激な意図を抱き、それを実行に移すために行進していたとのみは必ずしも確認し難い事情のあることをも考慮すると、たまたま偶然の成行きによつて逮捕されるにいたつた被告人両名だけをきびしく責めることは苛酷に過ぎるきらいがある、といわざるを得ない。それに、本件の事犯は、川口事件発生後における事態の推移について大学当局がなんら本質的解決を計ろうとしないばかりか、かえつて、革マル派と手をむすんで管理態勢を強化しようとしたことにその端を発しているのであつて、被告人両名はその中で犠牲となつたものである、という弁護人の主張が、それ自体として、まつたく理解できないわけではないし、それにまた、被告人両名が兇器準備集合罪の被疑者として二〇日間も勾留されたにもかかわらず、結局、軽犯罪法違反の罪として起訴せざるを得なくなつた捜査過程における経緯も、量刑上、全然これを考慮の外に逸するわけにはいかない。しかし、事の経緯はいかにあれ、また、被告人両名が各自の意見陳述書等によつて披歴しているところをできるかぎり酌み、かつ、両名とも過去になんらの前歴をももたない学生の身であることをも充分考慮するとしても、いわば一触即発ともいうべき緊迫した状況の下において、集団の後尾に付いて、白昼、多数の鉄パイプを紙袋の中に隠して持ち歩く、という本件犯行そのものの態様にかんがみ、主文に揚げる程度の拘留の刑をもつて処断することはまことにやむを得ないところであるといわざるを得ないし、それが軽犯罪法二条または四条の法意に背くものとは思われない。

なお、本件において、被告人両名は、はじめ昭和四八年五月一九日に兇器準備集合の被疑者として勾留状の発付を受けたが、その事実については、結局、不起訴となり、他方、同年六月七日軽犯罪法違反の事実によつて起訴されるとともに、同日、いずれも、同法違反被告人として、あらためて勾留状の発付を受けているのである(もつとも、後の勾留状は、その後被告人両名の氏名、住居が明らかになつたため、同年六月九日にその勾留裁判が取り消されている。)。このようなばあいに、後に不起訴となつた兇器準備集合罪について発せられた勾留状による未決勾留の期間を起訴になつた軽犯罪法違反被告事件の言渡刑に算入できるか、という問題があるが、なるほど、勾留状はそれぞれ二個づつ別個に発せられてはいるが、その内容となつている事実は、実質的に見て、併合罪的な別個の関係にあるものではなく、その基本的な関係において同一のものと認められるし、それに、前者の罪による勾留が後者の罪についての捜査に利用されていることは明らかであるから、たとえ、起訴後において、被告人両名の氏名、住居等が判明したために後の勾留が取り消され、刑言渡しの当時においてはその対象となつている軽犯罪法違反の事実についてはもはや勾留ができない状態になつていても(刑事訴訟法六〇条三項参照)、やはり、その言渡刑に兇器準備集合の事実についての勾留状による勾留の期間を算入し得るものと解するのが相当である。

(本件認定の事実のうちからヌンチヤク二組を除外した理由)

本件当時被告人両名および氏名不詳者一名が携帯していた三個の紙袋のうちの一個に鉄パイプ一八本のほかヌンチヤク二組が在中していたこと、しかし、その紙袋の携帯者が被告人小山であるか、または迯走した共犯の一人である氏名不詳者であるかが必ずしも確認し難いこと、そして、もし後者であるとすれば、証拠上認められる限りにおいて右三名が各自その紙袋を手渡され、その後本件甘泉園公園内に立ち入つて金子巡査と遭遇するまでの間において、たとえ、いずれも、右氏名不詳者の共犯であるとは認められるものの、同人以外の他の被告人両名が、その袋の中に鉄パイプのほかなおヌンチヤクというやや特異な兇器二組が在中していることを見聞したと推認されるような確証のないことは、いずれもさきに述べたとおりであるから、このような事態の下において右ヌンチヤク二組を被告人ら二名の共謀携帯の対象のうちにふくませることは当を得ないものと考えるのである。しかし、そうだからといつて、他の在中物である鉄パイプの携帯と包括一罪の関係にあるものとして起訴されたことの明らかである右ヌンチヤク二組の点について、主文で、とくに無罪の言渡しをする必要のないことは、あらためて言うまでもない。

(本件共謀携帯の対象物と認められる鉄パイプ合計五七本を没収しなかつた理由)

本件において、被告人両名が、氏名不詳者一名と共謀のうえ、隠して携帯していたと認められる合計五七本の鉄パイプについて、検察官は、刑事事件における第三者所有物の没収手続に関する応急措置法二条の規定による公告をしている。この法律が、被告人以外の者(第三者)の所有に属する物(被告人の所有に属するか第三者の所有に属するかが明らかでない物をふくむ)を没収するばあい、この第三者に対し、当該被告人に対する訴訟手続に参加の権利を承認し、「告知、弁解、防禦」の機会を制度として保障することを目的として制定されたものであることは言うまでもない。したがつて、この法律所定の手続を経て第三者の所有に属する物を没収するには、まずその前提として、実定法上その物件が、犯人以外の第三者の所有に係るときでも没収することができる旨の規定があるばあいに限られるのであつて、そのような規定のないばあいにおいては、たとえ右法律の規定による公告手続をとつたからといつて、犯人の所持する第三者の所有に属する物の没収が許されるわけのものではない。ところで、軽犯罪法違反の犯人に没収を科しうる根拠となる実定法上の規定は、刑法一九条であるが(ただし、拘留または科料のみにあたる罪のばあいの没収については、同法二〇条に制限規定がある。)、同条二項は「没収はその物犯人以外の者に属せざるときに限る」旨を明定しているから(もつとも、判例が、同項にいう「犯人」には「共犯者」をふくむという解釈を古くから維持しており、また、何人に対しても所有を許されない物件は没収することができるとの見解を判示し、さらには、犯人以外の者の所有に属するかどうか明らかでない物についても、犯人以外の者の所有に属しないとして没収することができるとも言つていることは、周知のとおりである。)、その物が第三者の所有に属すると推認されるばあいには、たとえその第三者が確定できないときでも、これを没収することは許されないのであり、したがつて、たとえ、その物について前記法律所定の公告手続がとられたとしても、それによつて該物件の没収が可能となるすじ合いのものではない。ところが、本件鉄パイプは、なるほど検察官は、被告人らがあらかじめみずからこれを準備したものであるとは主張しているが、客観的にこれを確認するに足るだけの証拠はないから、結局、被告人両名の供述によつて、それらの物件が他の何者かによつて被告人両名および氏名不詳者一名に手渡されたと認定せざるを得ないことは、さきにも述べたとおりであるから、これを前提とする限りにおいては、本件鉄パイプ五七本は、少なくとも、すなわち、被告人両名とその共犯者である氏名不詳者、以外の者の所有に属するものと推認せざるを得ないことになるし、また、本件鉄パイプが、判例にいわゆる「何人に対しても、所有を許されない物件」に該当するものとも思われないから、そうなると、たとえ、検察官がこれについて前記のように公告の手続をとつたとしても、これらの物を刑法一九条によつて没収することは許されないものといわなければならず、現に、検察官が、右公告手続をとつた後における弁論の最終段階において、本件については没収を科することを求めない旨を釈明しているのもおそらくは、右と同趣旨の見解に基づくものと推察される(もつとも、他面、本件のような鉄パイプ類は、たとえそれに対する管理権者の問題はありうるにしても、所有権の帰属などははじめからはつきりしない状態にあるが通例のことであろうから、結局、所有者の有無が明らかでない物として取り扱うのが相当であるとの見解もありうることとは思われるが、なお疑問の余地があるといわなければならない。)。

そこで、主文のとおり判決する。

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例